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2013.07.02 - 平成25年度 京都市内博物館施設連絡協議会  総会 研修  講演:遠藤剛熈 

台風が近づく悪天候となりましたが、約70館100名近くの参加者の方々が、

京都から新たな時代を開く内容の遠藤剛熈の講演に

熱心に耳を傾けて下さいました。

 

平成25年度京都市内博物館施設連絡協議会総会 次第

日時:平成25年6月21日14:30〜16:00
会場:遠藤剛熈美術館(2階)展示室
○開  会

○主催者・来賓紹介

○主催者挨拶   細見 良行 京都市内博物館施設連絡協議会 幹事長

○来 賓 祝 辞           門川 大作 京都市長
(生田 義久 京都市教育委員会 教育長 代読)

○会場館挨拶   遠藤 剛熈 遠藤剛熈美術館 館長

○京博連表彰式典・京都市長感謝状贈呈式

○議  事
1 平成24年度事業報告
2 平成25年度事業計画

○報  告
新規加盟館の紹介

○研  修
・講演  「純粋な京都の風景。大樹と日本の女の生命力。
描き続けて六十年。本来の美術館と美術教育。芸術寺院の建立。」
遠藤剛熈 遠藤剛熈美術館 館長
・館内見学  (遠藤剛熈美術館展示 自由見学)

○閉  会

○交 流 会   会場:遠藤剛熈美術館(1階)展示室

京都市内博物館施設連絡協議会



講演<タイトル>

純粋な京都の風景 大樹と日本の女の生命力
描き続けて六十年 本来の美術館と美術教育
芸術寺院の建立

遠藤剛熈 遠藤剛熈美術館 館長

<小タイトル>

明治以後の日本絵画

自然に帰れ 共生の芸術の創造活動

傾倒と讃嘆 伝統と創造

日本の私の精神

原始人の力 釈迦牟尼

大地に立つ樹と裸身の人間

イデア(idea ) 理想

純粋な京都の風景 一筋の道  セザンヌとモオツアルト

本来の美術館と美術教育

芸術寺院の建立

 

自然の存在を見て真実を探究する画家が、自分の仕事について言葉で語ることを、私はいつも躊躇します。
自然について、真実について語っても、自然自体、真実自体は言葉で語ることが出来ないからです。
今日、皆さんにお渡しした当美術館十周年記念の冊子には、言語表現の具眼の専門家達が、私の絵画の仕事について、述べておられるので、それをぜひ読んで下さい。
京博連役員の故上平貢さん、潮江宏三さん、榊原吉郎さんには、友誼ある言葉をいただいています。
これから四、五十分間、日頃考え、書きとめてきたものを、読みながら語ります。
お聞きになった後、全部忘れても、次の一言を記憶にとどめていただければと思います。   只デッサン!


 
明治以後の日本絵画

世界中が本当のデッサン=根本、基礎をやらなくなったが、私は絶えずデッサンをする。愚直に一筆に力をこめ、不器用な誠実さをもって、自分に出来る限りのことに努めている。そうして進歩している。

佛陀の弟子の聖シュリハンダカのようになれたら幸いです。

口にする多きによらず、聞くところ少なしといへ、聞くまゝに身に行ひつ、能く守り等閑にせぬ、かゝる人なむ法を護持する。
法句経

他人にほめられたいため、金もうけをしたいために描いてはならない。
制作の動機は、絶対的に純粋で誠実でなければならない。

自分自身であるため、真実のため、神佛のために描くのである。見せびらかさず、秘仏を刻むように。
セザンヌのように、誰にも知られぬ偉大な画家に私はなりたいものです。

明治以後今日までの日本の芸術文化は、欧米の模倣の域を出なかった。しかしこれからは人間の生活の現実と、日本の国土の自然と、精神伝統に深く根ざした、独自で普遍的で人類的な作品を創造しなければならない。
そのためには、島国の日本が大陸のインド、中国等の古代からの思想と文化を研究し、古代からの日本の思想と文化との交流と融合の歴史を、根本から知ることが肝要です。更に、古代エジプト、ギリシャ、ヘヴライ等の思想と文明の源流を尋ね東洋との交流を知ることが大切です。

明治以後の美術の洋画においては、日本人の油絵とデッサンは、到底西洋巨匠達の実力、力量には及ばない。
古代ギリシャ以来の、人間の身体と建築中心の立体的な造形の歴史があり、又、ルネッサンス以来の、油絵の技法の伝統がある西洋と、そういう造形や写実や技法の歴史と伝統がない日本とでは、無理もないことである。
しかし立体と空間を追求して、実在の生命をとらえる根本デッサンと、油絵の特質を生かした物質感と色彩感覚の表現力を、自己のものとして、西洋巨匠達に劣らぬ作品を創造するために、長い時間のねばり強い努力が必要です。

近代美術ではドラクロア、コロー、クールベ、セザンヌ、ルノワール、ルオー等の油絵の硬質で重厚で透明な色彩のマチエール。ロダン、ブルデル、ゴッホ、バルラッハ、ピカソ、ジャコメッティ等の彫刻と絵画の、対象を凝視し物に食い入る厳しい形の見方と真摯な態度。人類が然と大地に立つというデッサンの根本を身につけることが肝要です。

日本画は、小器用で上品です。しかし平面的で装飾的で力強さに欠けます。科学性、哲学性、論理性が乏しく、写実力、造形力、構築力が弱い。
東洋画の源流と思える悠遠な中国山水画の王維、董源、巨然、荊浩、李成、笵寛、郭キ、許道寧、王蒙等や、中国絵画を取り入れた我国の雪舟、雪村、友松、永徳、等伯、光琳等の厳然とした独自なデッサンに立ち帰らねばなりません。
同時に西洋の人体研究、実在の物質感表現、点、線、面、量の構築的造形的本格デッサンと、色彩感覚とその理論と法則を学び、東洋画と西洋画を綜合するという高い目的をもつことが、日本画、洋画を分かたず、今の日本の絵画全体のために大切です。更に世界の絵画のために肝要なことです。

世界の壁は厚いが、しかしそれでも、明治、大正のすぐれた画家、彫刻家達は、造形芸術の本道である実在のリアリティーの表現に真剣に挑戦しました。中でも体制派でなく、多くは夭折した異端の画家、彫刻家 ―― 青木繁、中村彝、関根正二、村山槐多、岸田劉生、佐伯祐三、富岡鉄斎、村上華岳、荻原守衛、高村光太郎、中原悌二郎等 ―― の作品と生き様は、現在も私に感銘を与えています。

昭和から平成の今日までは、世間的になり通俗化し、内実がなくなっています。伝統派の具象美術も、現代派の抽象美術も共に、機械化、ヴァーチャル化、マスコミ化、商業化の時流に翻弄されて、自己と、歴史の精神伝統の根本を見つめ、実在のリアリティを探究する本格デッサンを忘失し、皮相で貧弱になり、概念、様式、技巧の遊戯となっています。

 
自然に帰れ、共生の芸術の創造活動。

芸術の源は自然です。自然は尊厳で永遠です。自然は全ての芸術家に、無尽のものを与え得るほど豊かです。自然に代って、芸術の源となり、範となるような、力も権利も、人類は永久に持つことは出来ません。
人間が芸術を創造するという。自然は常に創造しているのです。無限な自然に全面的に服従し、忍耐強く自然を研究して、そこに作者の人間の魂を入れるのが、健全な芸術です。常に語るものは自然であり、聴くのが人間です。
現代はこれが逆転した。自然を深く見ず、自然の声をよく聴かず、勝手気ままなことをしゃべりまくっています。

太古において、人間の芸術的な創造は、全ての生命の父母である自然から生まれました。現代は科学技術を万能と過信しがちな物質文明の時代です。しかし今後いかに科学技術が進歩しようとも、人間が自然、宇宙を創ったのではないのだから、人間が自然を完全に支配することなど永久に出来ない。所詮人間は自然・宇宙から生じた生物の中の一つであり、自然・宇宙の中の微少な存在です。然るに父母なる自然に背き、自然を破壊する人類の愚行はとどまることを知らない。人間がつくった科学技術の悪使用によって地球の全ての生命が滅亡の危機に直面している今日、自然の命を慈しみ愛する心こそ何よりも大切なものです。
科学で自然を征服するという近代人の思い上がった人間知の愚かで狭量な排他闘争の思想ではなく、自然の諸存在と生命を等価値と見て分け隔てなく畏敬することが、現代において最も大切なことです。草木山川大地悉皆佛性。森羅萬象悉有神性、一切衆生全人類平等智という東洋人の思想は現代において重要なものとなっています。
この心をもって芸術家は自然の研究に全生涯を捧げなければならない。
人間のわずかな才能を驕り、霊感や神来に頼ってはならない。芸術家の資格は誠実と努力、意志と忍耐です。
絵画や彫刻などは視覚と触覚によるものであり、音楽は聴覚によるものです。文学は抽象的な文字によるものです。頭脳、眼、耳、手などは人体の各部分です。偉大な芸術作品は各部分ではなく、全身全霊をもって創作されたものです。尊厳な永遠な自然に全力をもって立ち向かい、自然の対象を傍観せず懸命に凝視し、自然の根源生命と芸術家の人間の生命が合体したものです。
機械化しヴァーチャル化していく現代、現実の自然との直接性、生きた感動と感覚の回復が肝要です。

 
傾倒と讃嘆。伝統と創造。

「偉大な人間に傾倒した者ばかりが、文化の最初の清祓を受けるのだ」

ニーチェ

「頭を下げよフイディアスの前に、そしてミケランジェロの前に。讃嘆せよ、前者の神々しい静けさを、後者の激越なる苦悩を。讃嘆は高貴な人間が酔うにふさわしい芳醇の美酒である」

ロダン

現代は、大自然と、太古から近代までに人類が創造してきた、偉大な芸術作品とその作者である人間への、尊敬と愛を喪失した時代です。
自然と巨匠、天才から啓示を受け、学び、自己の人間形成、人格形成(思想、哲学、人生観、世界観)に努め励むことを、しなくなった時代です。
現代は、巨匠、天才に全身的に傾倒せず、それゆえに彼等を継ぐ巨匠、天才が出ない時代です。
自分が芸術をつくるのではない。歴史上の諸々の芸術の傑作に出会い、傾倒し、研究し、時には対決して、一生涯かけて仕事をして、自分の芸術をつくるのです。このことは、歴史上の偉大な芸術家達に共通する宗教的精神態度です。
私は、殊更新しいものをつくろうとか、世間に目立つことをしようとか考えたことは全くない。自然と歴史上の巨匠、天才達の作品から学ぶこと。この人間としてあたり前のことをしようと努め励んできた。非凡なことをしたと思ったことは全くない。現代はこのあたり前のことを失っています。
巨匠、天才とは、真実と愛をもって、自然と人間を深く探求した人達です。
日々早朝から日没まで、制作に励む芸術家にとって、自然は新鮮な尽きることのない生命であり、力であり、神である。
制作することが信仰であり、道徳であります。
自然、実在がなければ、太古からの人間の健全な芸術創造の行為は存在しないのですが、現代は自然・実在・生きた神との直接の交流という根本と源泉を喪失した、本来の芸術文化の不毛の時代です。
こんな時代に、敬虔な心で、再び自然と、伝統、古典、巨匠から学び、生命のある芸術文化を復活させましょう。

 
日本の私の精神

私は西洋芸術を研究してきたが、卑屈な西洋一辺倒、崇拝をしてきたのではない。古来から日本人は、外国文化を取り入れて、我国独自の優れた美をつくってきた。油絵やデッサンなどの、西洋美術の伝統を研究して、日本人の心を、力を、エネルギーを表現することが私の仕事です。日本の自然と人間を描くこと、祖国を愛し、造形することが、私のライフワークです。

太古からの自然と、歴史的古典的風土の中に身を置いて、文化遺産を訪ね、芸術と学問の道に務め励むことが大切です。
先ず自然の存在の生命に即して自己を見出し、自己を知り、古来からの日本の文化の根本と特質を理解し、その上で古今の世界の文化を摂取することが、自己の芸術の仕事の深まりと広がりに役立つのです。
アジアの島国の日本人は、古代エジプト、ギリシア、ヘヴライ、アラビヤ、ペルシャ、インド、シナ等の、アジア、ヨーロッパ、アフリカの大陸の文化の根源と、その交流(東西南北)を、広く深く研究しなければなりません。
そうして太古から人類が創造して来た芸術の作品を、現地で観察し研究し、地球の大地に立つ力強い生命のある現代の芸術を創造することが肝要です。

近視眼的にならず、人間の歴史を、過去と現在と未来が関聯したものとして見る、古典的で健全な文化を再建することに務めなければなりません。
現代人の不幸は、精神の古典の地、故郷を失ったことにある。各人の幼少年時代は過去です。人類の精神伝統は、歴史は過去です。想像力とは、過去を現在にまざまざと蘇らせる人間の精神です。決して空想や懐古趣味ではありません。
歴史を正しく学ぶこと、即ち温故知新。古いものの中に本当の新しさがあることを見出すことが大切です。

歴史を学ばず、過去を葬り現在における未来の創造などと喚くのは、病的で軽薄で無価値なことです。

「真実はいつも少数派である。…真実はいつか必ず実現する。未来は過去と現在の単なる延長ではなく、過去と現在の中には、これまでに顕在化されていない可能性がふくまれている。」

湯川秀樹

 
原始人の力 釈迦牟尼

芸術家に制作意欲を起させるものは、裸形の自然の風景と人間の、リアルな尊厳な存在に、直接に対面し接触した時の、感動と驚嘆と畏敬と、礼讃と愛の念であります。
大切なものは、現実の野外の大地に立って、自然の存在を凝視し、精神を集中して、全身で全力で制作する勇気と情熱と、意志と忍耐と、体力と智力です。
「語るな、独り黙って自分の眼で、自然の真実の存在自体を深く見て、不断に仕事をする男の強い意志を持て」これが芸術家の自分への、釈尊の教訓であります。同じくセザンヌの教訓であります。
佛道、佛教の創始者の釈迦牟尼のムーニは、沈黙の意味である、釈迦は独り黙って自己の眼で、自然萬象を深く徹底して見た人です。
原始佛教の経典のスッタニパータ(最古の経典)やダンマパダを見ると、そこには原始人の強烈な生命の力がみなぎっています。野外の自然の諸々の恐怖や苦難に耐えた、男の強い意志と精神の力が在ります。そうして、人間としての最高の目的と、理想が在ります。

「最高の目的と理想を達成するために努力策励し、こころ怯むことなく、行いに怠ることなく、毅い活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。」

佛陀(スッタニパータ)

青年シッダールタは、真理の探究のために王位も財産も妻子も…全てを捨てて出家したのです。そうして裸身の乞食僧として長い歳月野外で苦行した後に、大樹の下で大地に座し冥想の精神集中をして大悟しました。
大自然・宇宙の根本真実と生命と自己が一如になりました。

私は野外の大地に立ち、釈迦を模範として、自然に即して制作に全力をつくしています。

 
大地に立つ樹と裸身の人間

原始美術

ヨーロッパ大陸からアジア大陸の広い地域で発掘されている、原始美術の石の立体彫刻の女体の立像があります。

ずんぐりとした、女体の胸、腹、腰、臀、股の部分だけのトルソ。特に下腹と乳が強調されています。生命の根源の豊饒な大地と生殖の象徴の女神です。地母神です。
時代が下ると女神の立像の背が高くなります。その女神と立つ樹(神木)が一体となり、地と天を結ぶ生命の象徴となります。それがやがて神を祀る神殿の立柱になります。

ギリシャ美術

コーレ。女子立像。着物をつけているうら若い女性。アルカイックスマイル。
クーロス。アルカイック期の青少年の男子の立像。
ギリシャ美術は西洋美術の永遠の古典、基礎であります。西洋のみならず全人類の人体(裸体)表現の永遠の古典、基礎である。現在に至るまで、ギリシャ古典期のフィディアスやプラクシテレスの名作を凌駕する作品を人類は創造することが出来ない。
日本人が思っているギリシャ美術の彫刻は、本当のギリシャではない。ヘレニズムのもので、多くはローマで模刻されたものです。

西洋のキリスト教中世紀をへて、ルネッサンスはギリシャ、ローマの裸体表現の復興。そうしてバロック。
イタリアはレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ、ジョルジョーネ、チチアーノ、チントレット、ヴェロネーゼ等。
ドイツ、ベルギーは、デューラー、リューベンス等。

近代は、フランスのドラクロア、クールベ、ロダン、ブールデル、マイヨール等の画家、彫刻家の裸体作品。

東洋では、インドと南アジアの男女立像。ヤクシー像等の裸体彫刻。

中国、日本等の東アジアは、古代から近代まで、造形芸術における人間の裸体表現の歴史は全くありません。

近代彫刻の巨匠のロダンやブールデルやマイヨールの人体は、人類の強烈な生命力、エネルギーがある。
彼等巨匠達に比べると、明治以後の日本人の人体作品は生命力、エネルギーが弱い。

これからは、地球の大地に自分の足が然と立つという根本と基礎に帰って、裸身の人間と樹を制作することが大切です。

裸身の人間が立って在る

一人の人間が立って在る。
太古から現代まで変わらない、裸身の人間が立って在る。
自然にあるというこの、ただそれだけの何と美しく、尊く、不思議なことか!
画家はこのように自然の実在を一生見つづけ、愛しつづける。
固有名詞のついた人間を描くのではない。
固有名詞に執すること(独占欲、所有欲)が人類の争いの原因なのだ。
描く者も、描かれる者も、自分であって、自分ではない。
自我以前の、純粋な生命の根源(神・佛)から生かされている存在だ。
本来名も無い、黙った、おのずからなる存在だ。
動物の中で人間は珍しく二本の足で立つ。歩く。
あまり速く走れないので、車や飛行機を発明し、
ついにロケットで宇宙の果てまで行こうとする。
母なる大地に立つという人類の原点と初心から離れていく。

裸形の大樹が立って在る

一本の大樹が立って在る。
何百年、千年も嵐や日照りに負けずに生き続けてきた裸形の大樹。
自然にあるということ、ただそれだけの、何と偉大で尊厳で雄壮で剛健なことか!
何と偉大で尊厳で剛健なことか!
大樹は黙って立ってきた。動物。特に人間がよくしゃべる。
あまりしゃべりすぎて沈黙することを忘れがちだ。
自然を深く見ることも、自然の声を聴くこともめったにしない。
人間は大樹の元に、時々やってくる、短い命の動物の一つに過ぎない。
画家は一本の樹木を見つづけ、描くだけでも、一生涯かかる。
それでもまだ描ききれないだろう。

 
イデア(idea ) 理想

もと、見られたもの・姿・形の意。
古代ギリシャのプラトン哲学の中心概念で、感覚的世界の個物の原理・原形として理性的認識の対象となるとともに、超感覚的価値として価値判断の基準となる永遠不変の実在です。
近世以降、観念、または理念の意となっています。

芸術家の私にとってミス日本とか、ミスワールドとかのコンクールで選ばれた美人といわれる女性が最も美しいのではなく、イデア、理想像ではありません。
同じく有名な世界遺産の富士山やエヴェレストがイデアなのではない。
それらを写真にとって、世界中に宣伝し、一般大衆をうなずかせるかもしれない。しかし芸術家にとってはそうではありません。

私にとって故郷の京都の風景の何でもない一隅や、普通の日本の女性、自分が知っている純朴な女性のモデルの姿・形がイデア・理想に通じるのです。
真実と愛をもって、風景や人間の自然の生命を見る、芸術家の眼と精神(心)が大切なのです。

ギリシャ文化、芸術の理論的分析と総合、造形精神がなければ、ヘヴライのキリスト教は、文化、芸術を創造することにならなかった。
同じくインドの佛教は、文化、芸術を創造することにならなかった。

古代ギリシャ以来の西洋の造形美術を画家として研究し、古代からのインド思想を佛教者として研究し、現代の芸術作品を創造して来た私にとって、インドとギリシャを起点とする古代から近代までの東洋と西洋の思想、文化、芸術の交流の歴史は、一生涯の関心事です。

ギリシャ美術の源流はエーゲ美術であり、更にエジプト美術です。エジプト彫刻の男女(王と妃)立像やレリーフの沈刻は、ギリシャ彫刻や絵画以上に力強い存在感があります。エジプト文明の元はエチオピアです。

 
純粋な京都の風景 一筋の道  セザンヌとモオツアルト

才能は、環境風土と、芸術家の作品との出会いから育成されます。

風土

京都に生まれ育ち、少年の日から親しみ愛して来た、純粋な京都の風景の中に、画因があり、絵画があったことから画家となりました。
水明山紫。豊かで冴えた色彩感覚。峻厳と優美。簡潔と洗練の美。
歴史的古典的風土。古より生まれかわり死にかわり、人間がつくって来た精神伝統、文化、歴史の恩恵であります。
日本の京都の永遠の自然を観る心が、無常と慈悲であることを少年の時から知りました。
以後今日まで、信仰と悟りと救済と永遠の生命のために絵画の道に精進することが、生涯の目的となっています。

芸術家の作品

近代西洋芸術のセザンヌとモオツアルト。
二度とない色彩感覚の鋭さと豊かさ。(セザンヌ)
二度とない音の感覚の鋭さと豊かさ。(モオツアルト)
共に、一つのものを異常に深く愛した芸術家。
幼少年の時から一生涯変わらぬ絵画世界(セザンヌ)、音楽世界(モオツアルト)があった最も純粋な芸術家です。

十七歳の時に、セザンヌの「赤いチョッキを着た少年」の油絵を見て、色彩感覚の鋭敏さ、絶対的な新鮮さと純粋さと潔癖さに感動しました。強靱な透明な色の力に目を吸い付けられました。
セザンヌの純真、至誠、真の自己を創るという信仰的真理から生まれた絵画の革命に出会って開眼しました。最晩年の「大水浴図」を見て、現代美術に通じる決定的な影響を受ける。以後今日までセザンヌは絵画の道の生涯の師となっています。

モオツアルトの音楽の、西洋と東洋を越えた神・佛に通ずる純粋な愛・慈悲、死から生を照らす光を聴き深い感銘を受け開眼しました。生涯の最後の瞬間に聴くであろう救済の来迎の音楽が心に響く。以後今日まで、諸作品を聴いています。

「たとい七歳なりとも我れより勝ならば我れ彼れに問うべし。たとへ百歳なりとも我れより劣ならば我れ彼れに教うべし」という道元の言葉のように、幼少年の純粋な心を持ち通した宗教家と芸術家達に、私は生涯に亘って習ってきました。

十八世紀後半以降の西洋の、ゲーテ、モオツアルト、ショーペンハウエル、ニーチェ、ルドン、モネ、セザンヌ、ゴッホ、リルケ、ベルクソン、ヘッセ、ロラン、ヤスパース等の芸術家や文学者や哲学者達は、東洋の思想と文化を受容し、東西融合の仕事をしました。

中でも音楽のモオツアルトと絵画のセザンヌの、二人の芸術の佛陀=覚者の仕事が、近代の西洋において達成されたことは、人類の精神史上甚だ重大なことです。
キリスト教神学者で近代実存哲学の祖と言われているキルケゴールと、二十世紀を代表するキリスト教神学者のバルトは、共にモオツアルトを崇敬し傾倒し切っていました。
此のことはキリスト教神学と佛教哲学両方にとって大変重要なことです。
モオツアルトの交響協奏曲は如実に超世の悲願的な世界であり、後期のピアノ協奏曲27番は正しく(絶対矛盾的自己同一の)禅的な境地です。
大きく広い即物性とでも言えるモオツアルトとセザンヌの作品には、諸行無常、諸法無我、縁起、相依相関、真空妙有等の佛教思想が普く表現されています。
此のような思想のある作品を創造した西洋の大音楽家と大画家は、彼等二人あるのみです。

キリスト教の祖のイエスの「自己否定の愛によって神を心に感じ取り祈る時に神に属する。世界の終末に救済の神の国が到来する」という思想は、佛教の「阿弥陀佛の本願の慈悲を心に感じ取り懺悔し念佛する最期の時に、極楽浄土に往生する」という思想に通ずるものです。当時インドとヘブライの間に宗教的、哲学的思想の交流があったことが考えられます。イエスは中東の人であり西洋人ではない。

セザンヌの中期の自画像の中の一枚には、知性的で天真爛漫で確信に満ちた自己尊
厳があり、後期の自画像の中の一枚は、原始佛教教典のスッタニパータの中の犀の角
の章の「人々は自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益
をめざさない友は得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め」の言葉と同じような絶対の孤独の道をゆく制作の心境の表現です。
セザンヌとモオツアルトの作品に共通する東洋的、佛教的思想の表現は数々あり、
その研究だけでも生涯を捧げ尽すことになるでしょう。
言うまでもなくキリスト教の伝統のある国に生まれた人であるモオツアルトとセザンヌの作品には、キリスト教の聖書の言葉を如実に顕現したものが数数あります。
先ず神の国とその義を求めよ。
心を入れ変えて、幼子のように成らなければ、神の国に入ることはできない。
自分を愛する者を愛したとて、何の報いがあろうか。
自分を愛するように汝の隣人を愛せよ。
受くるより、与うるは幸なり。
天に宝を積め、地上に財を蓄えるな。等の言葉です。
以上と同じ言葉が、ゴッホの絵の中にも信実に描き表されているのです。

モオツアルトの後期の三大交響曲といわれている作品は、数々の西洋音楽の中で最も古代ギリシャ的です。
これらの交響曲には、天地を貫き抜ける永遠の円環運動があり、叡智と健康があり、太陽の生命があります。大乗佛教の最高峰といわれる法華経の世界があります。
モオツアルトは、西洋と中洋と東洋、中でもギリシャとヘブライとインドの思想と芸術を綜合した音楽の大天才です。

セザンヌの弟子は世界に無数にいたし、現在もいるが、その中のマイヨール、ルオー、ピカソ、マチス、ボナアル等の彫刻と絵画の巨匠達が皆セザンヌを神のように尊敬していたことの事実は、近、現代美術にとって誠に重要なことです。

セザンヌの教訓は「自分自身であれ」と言うことです。
「自らを灯火とし、自らを拠り所とせよ、他者を拠り所としてはならない。法(真理)を灯火とし、法を拠り所とせよ」という言葉は釈迦の遺戒です。
同義のことをイエスは「たとへ全世界を得ても、そのために自らを見失い、自らの魂を損ずれば、真実得るものは何もない」と言っています。

ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、デューラーから、ドラクロア、クールベ、ゴッホ、ルオー、ピカソや、ロダン、ブールデル、ジャコメッテイまでの画家と彫刻家は、ギリシャ、ローマとヘヴライ(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)とエジプト、アフリカの思想、文化圏の中にとどまっているが、セザンヌ一人が、そこから更にインド中心の東洋の思想、文化圏をも含む広がりをもっています。
セザンヌは西洋と東洋を綜合する新しい絵画の革命を起した大天才です。

 
本来の美術館と美術教育

古来から東洋においても西洋においても、美術館と美術学校は寺院や教会の中にあった。
そこは大自然を根源とし、大宗教家・大芸術家の神人、真人を模範とする、出家者の共同生活の修道の場であった。
このことにおいて、文学(教学、哲学、詩等)と音楽と美術は一つのものであった。
このことのために美術(建築、彫刻、絵画、工芸等)の作品がつくられた。
写神、写佛するようにデッサン=基礎の修業が行われた。
精神の偉大さを欠く物質文明に追従する現在の美術社会――美術集団(画壇等)や、美術学校(大学等)――は、本当のデッサンを全く喪失しています。
現在の美術社会は、大自然を根源とし、大宗教家・大芸術家を模範とする、修道が全く無くなっています。
無思想、無理想、無信仰の廃墟のようです。
このような精神的頽廃と混迷の危機的な現在に、大自然を根源とし、大宗教家・大芸術家を模範とする、自己教育と、精神伝統、古典の継承と、新たな宗教と芸術の創造が肝要です。

日本の中世の大思想家、宗教者にとって、佛(覚者)と自然の風景の詩と絵画と音楽は一つでした。

「草も木も枯れたる野辺にただひとり、松のみのこる弥陀の本願。」       
                      法然

「峰の色谿の響もみなながら、我釈迦牟尼の声と姿と。」        

                      道元

 
芸術寺院の建立

芸術は一つの宗教であり、宗教は一つの芸術であります。芸術的真実と、宗教的真実は一つであります。最大の芸術家は最大の宗教家であり、最大の宗教家は最大の芸術家であります。

「一以テ之ヲ貫ク。」  孔子 

天地と人との、人と人との、命と命との、最も純粋で痛切で運命的で決定的な、出会いをもって、一生涯を貫く。
宗教と芸術の覚者、真人、大天才との出会いがあって開眼し、覚醒し、回心し、新たに誕生したことの、謝念をもって、菩提心を起して、芸術寺院の美術館の建立を発心する。
十五年の歳月をかけて二千年秋に公開しました。

「菩提心をおこすと云ふは、己れいまだわたらざる先きに一切衆生をわたさんと発願しいとむなり、そのかたちいやしと云ふも、この心を発せばすでに一切衆生の導師なり。」                  
                          道元

「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も、ほねをくだきても謝すべし。」

                          親鸞

講演の素人の画家の話し方なので、さぞ退屈されたことでしょう。ご傾聴有り難うございました。



交 流 会   会場:遠藤剛熈美術館(1階)展示室

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