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明治以後の日本絵画

 自然(じねん)の存在の真実(法)を探究する画家が、自分の仕事について言葉で語ることを、私はいつも躊躇します。
 自然の存在について、真実について語っても、自然存在自体、真実自体は言葉で語ることが出来ないからです。
 今日、皆さんにお渡しした当美術館十周年記念の冊子には、言語表現の具眼の専門家達が、私の絵画の仕事について、述べておられるので、それをぜひ読んで下さい。
 京博連役員の故上平貢さん、潮江宏三さん、榊原吉郎さんには、友誼ある言葉をいただいています。
 これから四、五十分間、日頃考え、書きとめてきたものを、読みながら語ります。
 お聞きになった後、全部忘れても、次の一言を記憶にとどめていただければと思います。   只デッサン!

 

 

明治以後の日本絵画

 世界中が本当のデッサン=根本、基礎をやらなくなったが、私は絶えずデッサンをする。愚直に一筆に力をこめ、不器用な誠実さをもって、自分に出来る限りのことに努めている。そうして進歩している。

 釈迦の弟子のシュリハンダカのようになれたら幸いです。

 「口にする多(たわ)きによらず、聞くところ少なしといへ、聞くまゝに身に行ひつ、能(よ)く守り等閑(なおざり)にせぬ、かゝる人なむ法を護持する。」

                      法句経

 

他人にほめられたいため、金もうけをしたいために描いてはならない。
 制作の動機は、絶対的に純粋で誠実でなければならない。

 自分自身の魂のため、真実のため、神佛のために描くのである。見せびらかさず、秘仏を刻むように。
 セザンヌのように、誰にも知られぬ偉大な画家に私はなりたいものです。

 明治以後今日までの日本の芸術文化は、欧米の模倣と追従の域を出なかった。しかしこれからは人間の生活の現実と、日本の国土の自然と、精神伝統に深く根ざした、独自で普遍的で人類的な作品を創造しなければなりません。
 そのためには、島国の日本が大陸のインド、中国等の古来からの思想と文化を研究し、古来からの日本の思想と文化との交流と融合の歴史を、根本から知ることが肝要です。更に、古代エジプト、ギリシャ、ヘヴライ等の思想と文明の源流を尋ね東洋との交流を知ることが大切です。

 明治以後の美術の洋画においては、日本人の油絵とデッサンは、到底西洋巨匠達の実力、力量には及びません。
 古代ギリシャ以来の、人間の身体と建築中心の立体的な造形の歴史があり、又、ルネッサンス以来の、油絵の技法(メチエ)の伝統がある西洋と、そういう造形や写実や技法の歴史と伝統がない日本とでは、無理もないことです。
 しかし立体と空間を追求して、実在の生命をとらえる根本デッサンと、油絵の特質を生かした物質感と色彩感覚の表現力を、自己のものとして、西洋巨匠達に劣らぬ作品を創造するために、長い時間のねばり強い努力が必要です。

 近代美術ではドラクロア、コロー、クールベ、セザンヌ、ルノワール、ルオー等の油絵の硬質で重厚で透明な色彩のマチエール。ロダン、ブルデル、ゴッホ、バルラッハ、ピカソ、ジャコメッティ等の彫刻と絵画の、対象を凝視し物に食い入る厳しい形の見方と真摯な態度。人類が然(しか)と大地に立つというデッサンの根本を身につけることが肝要です。

 日本画は、小器用で上品です。しかし平面的で装飾的で力強さに欠けます。科学性、哲学性、論理性が乏しく、写実力、造形力、構築力が弱い。
 東洋画の源流と思える悠遠な中国山水画の王維、董源、巨然、荊浩、李成、笵寛、郭熙、許道寧、王蒙等や、中国絵画を取り入れた我国の雪舟、雪村、友松、永徳、等伯、光琳等の厳然とした独自なデッサンに立ち帰らねばなりません。
 同時に西洋の人体研究、実在の物質感表現、点、線、面、量の構築的造形的本格デッサンと、色彩感覚とその理論と法則を学び、東洋画と西洋画を綜合するという高い目的をもつことが、日本画、洋画を分かたず、今の日本の絵画全体のために大切です。更に世界の絵画のために肝要なことです。

 島国の日本の閉鎖的な社会の、有名無実の虚像にかわり、日本人各自の知性、世界精神、批評精神が高まることによって、本物が出現する機運が、着実に到来しなければなりません。世界が全く評価しない日本だけの狭い評価は、早かれ遅かれ滅び去ることは必定です。

 世界の壁は厚いが、しかしそれでも、明治、大正のすぐれた画家、彫刻家達は、造形芸術の本道である実在のリアリティー(真実在生命)の表現に真剣に挑戦しました。中でも体制派でなく、変革派の画家、彫刻家(多くは夭折した) ―― 青木繁、中村彝、岸田劉生、村山槐多、佐伯祐三、薄田芳彦、関根正二、富岡鉄斎、村上華岳、荻原守衛、戸張孤雁、高村光太郎、中原悌二郎等 ―― の生き様と作品は、現在も私に感銘を与えています。

 昭和から平成の今日までは、世間的になり通俗化し、内実がなくなっています。
 伝統派の具象美術も、現代派の抽象美術も共に、科学技術の物質文明の工業化、商業化、ヴァーチャル化、マスコミ化の時流に翻弄されて、人類の精神伝統の歴史の根本を深く見つめ、自己を見つめ、自然の実在のリアリティー(真実在生命)を探究する本格デッサンを忘失し、皮相で貧弱になり、概念、様式、技巧の遊戯となっています。

 
 
 
 
 
  

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