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純粋な京都の風景 一筋の道        セザンヌとモオツアルト

 才能は、環境風土と、芸術家の作品との出会いから育成されます。


風土

 京都に生まれ育ち、少年の日から親しみ愛して来た、純粋な京都の風景の中に、画因があり、絵画があったことから画家となりました。
 水明山紫。豊かで冴えた色彩感覚。峻厳と優美。簡潔と洗練の美。
 歴史的古典的風土。古より生まれかわり死にかわり、人間がつくって来た精神伝統、文化、歴史の恩恵であります。
 日本の京都の永遠の自然を観る心が、無常(かなしさ)と慈悲(やさしさ)であることを少年の時から知りました。
 以後今日まで、信仰と悟りと救済と永遠の生命のために絵画の道に精進することが、生涯の目的となっています。


芸術家の作品

近代西洋芸術のセザンヌとモオツアルト。
二度とない色彩感覚の鋭さと豊かさ。(セザンヌ)
二度とない音の感覚の鋭さと豊かさ。(モオツアルト)
共に、一つのものを異常に深く愛した芸術家。
幼少年の時から一生涯変わらぬ絵画世界(セザンヌ)、音楽世界(モオツアルト)があった最も純粋な芸術家です。

 十七歳の時に、セザンヌの「赤いチョッキを着た少年」の油絵を見て、色彩感覚の鋭敏さ、絶対的な新鮮さと純粋さと潔癖さに感動しました。強靱な透明な色の力に目を吸い付けられました。
 セザンヌの純真、至誠、真の自己を創るという信仰的真理から生まれた絵画の革命に出会って開眼しました。最晩年の「大水浴図」を見て、現代美術に通じる決定的な影響を受ける。以後今日までセザンヌは絵画の道の生涯の師となっています。

 モオツアルトの音楽の、西洋と東洋を越えた神・佛に通ずる純粋な愛・慈悲、死から生を照らす音楽を聴き深い感銘を受け開眼しました。生涯の最後の瞬間に聴くであろう救済の来迎の音楽が心に響く。以後今日まで、諸作品を聴いています。
 「たとい七歳なりとも我れより勝ならば我れ彼れに問うべし。たとへ百歳なりとも我れより劣ならば我れ彼れに教うべし。」という道元の言葉のように、幼少年の純粋な心を持ち通した宗教家と芸術家達に、私は生涯に亘って習ってきました。

 十八世紀後半以降の西洋の、ゲーテ、モオツアルト、ショーペンハウエル、ニーチェ、ルドン、モネ、セザンヌ、ゴッホ、リルケ、ベルクソン、ヘッセ、ロラン、ヤスパース、マルセル等の芸術家や文学者や哲学者達は、東洋の思想と文化を受容し、東西融合の仕事をしました。

 中でも音楽のモオツアルトと絵画のセザンヌの、二人の芸術の佛陀=覚者の仕事が、近代の西洋において達成されたことは、人類の精神史上甚だ重大なことです。
 キリスト教神学者で近代実存哲学の祖と言われているキルケゴールと、二十世紀を代表するキリスト教神学者のバルトは、共にモオツアルトを崇敬し傾倒し切っていました。
 此のことはキリスト教神学と佛教哲学両方にとって大変重要なことです。
 モオツアルトの交響協奏曲(サンホニアコンセルタンテ)は如実に超世の悲願的な世界であり、後期のピアノ協奏曲27番は正しく(絶対矛盾的自己同一の)禅的な境地です。
 大きく広い即物性とでも言えるモオツアルトとセザンヌの作品には、諸行無常、諸法無我、縁起、相依相関、真空妙有等の佛教思想が普く表現されています。
 此のような思想のある作品を創造した西洋の大音楽家と大画家は、彼等二人あるのみです。

 キリスト教の祖のイエスの「自己否定の愛によって神を心に感じ取り祈る時に神に属する。世界の終末に救済の神の国が到来する」という思想は、佛教の「阿弥陀佛の本願の慈悲を心に感じ取り懺悔し念佛する時に、極楽浄土に往生する(現世正定聚・臨終往生)」という思想に通じるものです。当時インドとヘブライの間に宗教的、哲学的思想の交流があったことが考えられます。イエスは中東の人であり西洋人ではない。

 セザンヌの中期の自画像の中の一枚には、知性的で天真爛漫で確信に満ちた自己尊厳があり、後期の自画像の中の一枚は、原始佛教教典のスッタニパータの中の犀の角の章の「人々は自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。」の言葉と同じような絶対の孤独の道をゆく制作の心境の表現です。
 セザンヌとモオツアルトの作品に共通する東洋的、佛教的思想の表現は数々あり、その研究だけでも生涯を捧げ尽すことになるでしょう。
 言うまでもなくキリスト教の伝統のある国に生まれた人であるモオツアルトとセザンヌの作品には、キリスト教の聖書の言葉を如実に表現したものが数数あります。
 先ず神の国とその義を求めよ。
 心を入れ変えて、幼子のように成らなければ、神の国に入ることはできない。
 汝の思い煩いを神に向って投げよ。
 自分を愛する者を愛したとて、何の報いがあろうか。
 自分を愛するように汝の隣人を愛せよ。
 受くるより、与うるは幸なり。
 大道りでラッパを吹くな。隠れた所で祈れ。
 天に宝を積め、地上に財を蓄えるな。等の言葉です。

 

以上と同じ言葉が、ゴッホの絵の中にも信実に描き表されているのです。

 モオツアルトの後期の三大交響曲といわれている作品は、数々の西洋音楽の中で最も古代ギリシャ的です。
 これらの交響曲には、天地を貫き抜ける永遠の円環運動があり、叡智と健康があり、太陽の生命があります。大乗佛教の最高峰といわれる法華経の世界があります。
 モオツアルトは、西洋と東洋、中でもギリシャとヘブライとインドの思想と文化を綜合した音楽の大天才です。

 セザンヌの弟子は世界に無数にいたし、現在もいる(例えば剛熈)が、その中のマイヨール、ルオー、ピカソ、マチス、ボナアル等の、二十世紀の彫刻と絵画の巨匠達が、皆セザンヌを神のように尊敬していたことの事実は、近、現代美術にとって誠に重要なことです。


 セザンヌの教訓は「自分自身であれ。」と言うことです。
 「自己を灯火とし、自己を拠り所とせよ、他者を拠り所としてはならない。自己の尊厳を持て。真実(法)を灯火とし、真実(法)を依所とせよ。」という言葉は釈迦の遺戒です。
 同義のことをイエスは「たとへ全世界を得るとも、そのために自己を見失い、自己の魂を損ずれば、真実に得るものは何もない。」と言っています。

 ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、デューラーから、ドラクロア、クールベ、ゴッホ、ルオー、ピカソや、ロダン、ブールデル、ジャコメッテイまでの画家と彫刻家は、ギリシャ、ローマとヘヴライ(主にキリスト教)の思想、文化圏にとどまっているが、セザンヌ一人が、そこから更にインド中心の東洋と、エジプトの思想、文化圏をも含む広がりをもっています。
 セザンヌはギリシャとヘヴライとインドとエジプトを綜合する、新しい絵画の革命を起した大天才です。

 
 
 
 
 
  

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