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[来賓挨拶] 潮江宏三

芸術の本質から離れた今日の状況下にあって 芸術の本質に繋がる一筋の閃光
デッサンと油彩に通底し共通するものは 何でもない平凡な主題 絵になりにくい自然の一角を見据える姿勢 仏教思想や実存主義など幅広い思想遍歴 存在の本質にじかに触れようとする力業 芸術の本具の深さ

潮 江 宏 三(美術史家 京都市美術館館長 前京都市立芸術大学学長)

 

 遠藤剛熈美術館の開館10周年を心からお祝い申し上げます。おめでとうございます。
 京都の自然と人体をたゆまず描いてこられた一人の画家が自分自身の芸術を披歴するために美術館を建てられて10年、それを維持するだけでも並大抵のことではないのに、さらに克己奮励してその時に増して充実したものになされましたことは、まことに尊敬に値する「偉業」とも言うべきことではないでしょうか。当たり前のお祝いの言葉をする前に、その思いがふつふつと湧いてまいります。
 画家遠藤さんの足跡は、ひたすら芸術の道を突き進む歩みであったかと思います。そのことが、今では芸術で儲けようとか、町のにぎわいを取り戻そうとか、経済効果を生み出そうとか、芸術の本質から少し外れたところで、なにやらあやしげな匂いの漂う今日の芸術を取り巻く状況下にあればこそ、遠藤さんの道筋は芸術の本質に繋がろうとする一筋の閃光として眩しく見えます。そしてそのような足跡を京都の町中で見て、肌にひしひしと感じることができるというそのことは、われわれに原点を見直すことを示唆してくれるだけでなく、この都市の文化創造力にも大きく寄与してこられたのではないかと思います。
 画家遠藤さんの作品については、ご自身もゴッホとセザンヌから学んだことを自ら書いておられますし、遠藤さんの作品をこれまで論じてこられた高名な評論家の方々も、異口同音にそのことを強調されております。とはいえ、1955年、周囲の期待を集め、自らも熱い想いで画学生となられたころは、当時の日本西洋画壇の王道であります少々厚塗りのフォーヴとしての歩みを歩んでおられたように思います。そのことがその後の油絵の塗り込みの技法を決定づけているようにも見受けられます。しかし、その一方で、59年から描き始めらました「武蔵野」のデッサンでは、まるでヌエネンやベルギーの炭鉱時代のゴッホが蘇ったような、力強い、存在の本質を文字通り掘り出そうとするかのような大地の描き方が見られます。それが遠藤さんの画業の大きな軸、二つの軸のうちの一つ、ものの存在感を彫り出そうとするかのような力強く太い線から成る、裸婦や樹木のデッサン作品へと展開していっているのだと改めて確信されます。
 セザンヌは、と言うとどうであるか。1960年代末から70年代にかけての南禅寺等を描きました作品の中には、あっと思うほどセザンヌに似たフォルムの解釈、色彩のタッチの使い方が見られますが、遠藤さんにとっては、ゴッホが存在を捉えるデッサンの本質を教えたのと同じように、セザンヌもまた表面の類似とか技法の学習ではなかったように思います。遠藤さんがセザンヌと最もよく似ているところは、むしろ絵になりにくい自然の一角を見据えて、そこにある樹木や木立、大地、岩、建物等さまざまな対象の関係をフォルムと色彩を確定していくことで読み解いて、自分独自の捉え方で構造化していく、その姿勢にあると思います。セザンヌといえば「サント・ヴィクトワール山」が今でこそ有名ですが、それすら、その地方ではともかく、とても名所旧跡の類ではありませんでしたし、まるで面取りして造形したかのような石灰岩の山であるからこそ、つまりそのフォルムの面白さゆえにセザンヌによって選ばれたモチーフだったわけですから、ましてや他の主題に関してはそれ以上になんでもない主題だったでしょう。つまり、むしろ家族が所有している、自分が親しんでいる場所であるとか、庭園であるとか、別荘であるとかその構造をそういう物を選び、その構造を読み解く面白さを感じさせる場所であるとかそういうかたちの考え方によって選び、主題の選択が決定されているのです。
 遠藤さんの風景画の主題の選び方にも、同じ姿勢が感じ取られます。つまり、遠藤さんは、セザンヌの中に、感覚や認識の凝縮あるいは結晶化をなすというよりは、存在の確信に至ろうとする姿勢の方を強く意識し、それに学んだのだと思います。そのことは、結局、ゴッホについても同様であったのかと思います。スタイル的には違和感がないこともない、遠藤さんのデッサンと油彩との間を通底しているもの、共通のものの正体は、その姿勢だったのだと、改めて作品を今回拝見させていただいて今、再認識いたしております。
 そして遠藤さんが、単に絵を描いていただけではなく、仏教思想の探求を始め、幅広い思想的遍歴の持ち主であり、特に実存主義には並々ならぬ傾倒をなされたことを想い起こすとき、そこにも深い所での符合を感じざるを得ません。いずれにしましても、遠藤さんの外見のスマートさに似合わない、この武骨ささえ感じさせるほどの、存在の本質にじかに触れようとする力業(ちからわざ)は、芸術が本来持っているはずの深みを改めて感じさせるものであります。
 この一筋の道を突き進んでこられた遠藤剛熈画伯の足跡がいつでも見られる美術館がここ京都にあることに感謝しつつ、それと同時にそれがすでに10年の歴史を経て、さらに充実したものとなろうとしていることを目撃できることほどに、幸せなことはないと思います。そのことに対する感謝を表すとともに、遠藤剛熈美術館の設立10周年を心からお祝いし、画伯の画業の今後ますますの発展をお祈りして、ご挨拶といたしたいと思います。

                    (美術史家)

 
 
 
 
 
  

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