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[映像紹介] 加藤周一

[講演]  抜粋 後半の部分

大変感動した 天才 稀なこと
一生を賭け 命を懸けている仕事
頼まれても めったに書かないが
自発的に 久し振りに力を入れて書いた
全部の作品を見たい 見なければ
そうでなければ一人の画家について語る
ことはできない

加 藤 周 一 (文学者、批評家)

 

 …そこでこの美術館、この遠藤さんの仕事は、やはり私はですね、初期はもう当たり前だ。全ての画家はそういう経過をたどるんだけどね。割にある時期から自分の世界を発見してると思うんですね。これは非常に… 僕は天才という言葉はあんまり使わないんだ。というのは、言ってもあんまり意味を成さないからね。内容がないですから天才と言ってもね。何も説明してないわけですよね天才だということは。だからあんまり使いませんけど。だけどそれはよくあることじゃないですよ。あるところから自分の様式になって、そしてそれ以後変わらないというのは。だからみんなゴッホじゃないですよ。しかしそういうことはめったに起こってないですよ。それは展覧会をご覧になればすぐわかる問題だと思うんですね。
 それで、京都で、私は割に最近なんですが、この美術館を訪ねて見せていただいて、そういうことを感じたんですね。それは自分の世界をやっぱりずっと追ってると思う。そうするとその中の、自分の発見した絵画的世界の中にある可能性を探索する。そして発見した世界がいいものなら、京都の風景画と裸体画なんですがね、主として。だけどそれは非常にひろい世界だから、なかなか忙しいと思いますよ、遠藤さんにしてみりゃ。後から後からもう感じてるから、今実現しなかった可能性を感じてるから、それを攻撃、 攻めてるというかな、だんだんに実現していくという感じなんだろうと思うんですね。
 結果から見ると、こういう風景画でもそうですが(桂川シリーズを指して)殆どぱっとわかるのよね、これは遠藤さんの風景画だろうということは。どうして、どういう特徴があるのかというと、それはちょっと口で言うのはなかなか難しい問題があるんですが… あると思いますけどね。裸体画なんかでもそうですね。そういうことですね。だからちょっと興味を持った、これは大変面白い。
 それで、私は本当の芸術家というのはアヴァンギャルドだと思うんですよ。
世の中こういうふうになったからついて行くというのではなくて、自分で発見した世界で行く。それで人はそれについて来るかもしれないし、来ないかもしれないけど、だけどその道を進んでいく。絶えず前進するということがあると思います。だから絶えず前進してるということと、それから全く、ある時期から外の、その時代の画壇というものとの関係がない。つき合いがないという意味じゃないですよ。つき合いもなかったかもしれないですが、それは私は、だからさっきから言ったように、人物の生き方について話しているんじゃなくて絵について話してるんだから。だから絵の中にその時代の流行の影を落としてないですね。
 だからそれは本当に前進する自分の姿で、そういう人はマルティカルチュラリズムみたいなもんでね、多文化主義みたいなもんで。人によって違いますよ、それぞれの世界は。しかしそれは上下の問題じゃないと思うんですよ。それは本当の芸術家というのはみんなそういう形になるのでね。どっちが偉いとかどっちがという上下関係の問題じゃないと思いますね。それは平等に権利があると思う。自己主張。それは人間の個性みたいなもんだ。だけど今言ってるのは絵の個性みたいなものですね。そういうのを感じたら、まあちょっと大げさに言うと、それがこう少しずつ、中から出てきたものがこう少しずつ発展して、持ってる可能性を年とともにだんだんに実現していく過程というのは非常に緊迫感があって、殆ど、何ていうんだろうな、息をのむような緊張感があると思いますね。それは人生の方を見る必要はないですよ、僕は。そこで波瀾万丈があるかもしれないし、波瀾万丈がなくて静かかもしれないけど、そんなことはどうでもいいんだ、私の関心から言えば。だから絵を年代順に見た時に、その中にドラマがね、ドラマというのは矛盾があるし、それからいろんな要素が中で闘ってますから緊張関係があるんですよね。
 例えば、ここでは色をあんまり使ってないんだ、他のはみんな黒白だけど。そういうことも、つまり色と黒白との関係。明るさはあるわけでしょ。緊張関係というのは、実際の写真、風景は色があるわけですから。だからそれはある意味で一番本質的なものを見るのに… だから決して写生はないですね。写生という絵画はないですよ。裸体画でもそう。そういうことは、それから風景画でもそうだと思うんですね。
 まず第一に、一番見やすい点は第一色がないということがそうでしょ。それからその他にもう一つは、こういう風景画でもみんなそうなんですが、ご覧の通り非常に木の枝がたくさんあるのは、みんな木の枝は真っ直ぐなやつは一本もないんだからみんな曲線ですよね。それで曲線からなってるわけでしょ。だから画面の大部分を木が、枝が覆ってるということは、つまり曲線が覆ってるということですよね。しかしそこに直線が入ってるんですよ。直線は例えばレールとか道路とか、畑の区切りとかいろんな形だけど、それはみんな人間の作ったもので。だから自然に与えられた曲線と、それから人間の創った直線との闘いね。あるいはその拮抗関係、あるいは緊張関係を、二次元の限られた空間の中でもってどういうバランス、どういう組み合わせによって、緊張関係からどういうハルモニー、調和をくみ出すかということが闘いというか、試みみたいなもんだともいえると思うんです、例えばですよ。だからそれがだんだんに変わっていくのが実に面白いんですね。面白いというか、劇的だと思うんですよ、そういう意味で。人生には人生の劇があるけど、絵には絵の中の絵の劇があると思うんですね。それはもう非常に面白いです。
 だから私はいろんなそういう劇を感じられる画家の仕事を集めて、それで個展で、年代順に、レトロスペクティーヴ、一生の仕事を見るのが大好きなんですよ。あるいは、そうでなければ一人の画家について語ることはできない。全集と同じ。だから全部見なきゃ。そして絵の中にあるドラマだけが本当に、あれですよ、面白味の… なんですよね。それは大変いいと思いますね。遠藤さんの今まで一生かけてやった仕事の中にそういう劇があると思うんですよ。それがちょっとずつ違うんですがね。人物でもそうだけど、段々それが、ある意味で、造形が一つところに集中してくる。分散するんじゃなくて段々に… 簡単化、単純化を含みながらだけどね。だけどそれが段々やってるうちに一点に集中してくるという傾向があると思う。だから木の幹と、それから女の裸体画とが、だいたい一つところに段々段々来ると思う。ある一種のマッスの感じとか、それから曲線と直線との関係とか、あるいは、そうですね。それから勿論、表面的に、表面の光もあるけれどね。だけどそれは一本の木の太い幹と、それからこう、立ってる。みんな立ってるでしょ。だからそれとの関係は似てる。どうして立ってるのかというのは、木は立ってるからですよ。だからその時は、女と木は同じことですよ。同じ造形だと思うんですね。これはちょっと、素晴らしいというか、素晴らしいと思いますね。非常に面白いですね、そういうことはね。私はあんまり、日本に長く住んでたものですから、あまり政治家を尊敬しないんですけどね。私は他人のことを尊敬するとしたらだいたい芸術家、芸術家を尊敬するんだ。芸術家はつくる人だからね。政治家というのは何もつくらない。たびたび壊すけどね。だけどつくることはできもしないし、事実つくらないと思うんです。だからそういう意味で一種の尊敬もあるんだ。好きなだけじゃなくてちょっと尊敬があるんですね。人間のやった仕事のね、独立性。人から離れてるんだけど、だけどその人がつくったものだからな、結局最後は。だからそれを、そういうことをちょっと少し分析的にここに書きました。で、それが私のご挨拶。

                     (文学者、批評家)

 
 

追悼 感謝 加藤周一先生

…内には一人の芸術家の生涯の仕事の集積があった。芸術的創作は冒険であるから、その内部の空間には緊迫した空気がある。絶えず自分自身を否定し乗り越えていこうとする意志がある。
 自分自身を乗り越え、世界の新しい「イメージ」へ向って踏み出すのは冒険である。その先に何があるかわからないからだ。一度成功した商業主義的な画家は、必ずくり返す。それは安全な道である。芸術家はくり返さず、冒険に挑む。…

…曲線と直線、下から上へ向う樹の幹の方向性と軒や階段や地平の水平線。その緊張とつり合いが静かな光のなかに沈んで、動かない。これが遠藤さんの風景画であり、誰も見つめたことのない景色である。誰も描かなかった対象であり、独創的で新鮮な世界である。…
…確実に、色を整理し、線を活かし、形を基本的な要素に絞りながら、断えず前進しつづける。一つの画面の後にどういう画面があらわれるか。─その期待と意外性、持続と変化は、ほとんど息をのむような劇的感動を生みだす。…
(京都の風景)

…風景は林に集中し、林は一本の大木に収斂し、遂に大樹の幹が画面の中央大部分を占めるようになる。下には地の中から伸びてきた根があり、上には四方へ向って空を蔽う枝と繁みがある。幹はその天と地の間に、あらゆる生命のように、起ち上がった人間のからだのように、ホレイショの哲学も夢みなかった不思議のように、存在する。…
(大樹)

…大地につながる生命の根源の象徴とでも言うべきか。(中略)身体と化した理想、佛教の用語を借りれば「地天」の姿、 ファウストの比喩に従えば、「永遠に女性的なるもの」の形がある。それが「日本の女」連作である。
(日本の女)

 ここでは風景画と裸婦像が、同じ到達点で出会う。画面一ぱいの大樹の幹は裸婦のたくましい腿のように見え、逆に女の腿はゆるぎない樹の幹のように見える。樹の根は大地に張り、女の裸の足は土を踏みしめる。幹は枝と繁みの多様性を生みだし、女の身体は生きとし生けるものの千変万化を実現する。生命の多様性とその根源の統一性、それを支えるのは、土であり、大地であり、「自然」である。…
(土、大地、自然)

    

                    加 藤 周 一

 
 
 
 
 
 

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