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寄稿文 田辺 徹

田辺 徹 氏
京都成安学園特別顧問、美術史家

 

寄稿文
「セザンヌの前に立つ遠藤剛熈さん」

田辺  徹

 遠藤さんといっしょにセザンヌを見にいったことがある。はじめは1998年の春、ロンドン大学付属コートールド美術研究所のコレクションが京都の高島屋へ来たときで、12点のセザンヌがあった。次は1999年の秋、横浜美術館のセザンヌ展、これは106点の大展覧会だった。高島屋では1875年ごろに描かれた「デ・スールの池、オスニー」の前で、二人とも長い間立ちつくしていた。パレットナイフで塗られたさまざまの色調の線がことさら美しく、遠藤さんは、ひとりでうなづきながら、画面に見とれていた。横浜美術館はひととおり見るだけでも大変だったが、遠藤さんは早朝に京都を発った身体に疲れも見せず、いかにも楽しそうだった。このとき、かつて松方コレクションに入っていて、第二次大戦後に故久保禎次郎氏の手許にあったとき、その邸に通って色の覚えがきをつくった「レスタックの岩」がサンパウロ美術館から出品されているのに出会った。サンパウロに移ってから画面の汚れが洗浄されたようで、レスタックの海とその向うの山の美しいブルーがひときわさわやかで、せんさいな光をふくんだ白い雲がさらにその遠くを流れている。手前の大きな岩とその裾の線の草に光があたって、その色彩のコントラストの響きの明快さ。洗浄で生き返った画面との出会いはいかにもショッキングで、改めてセザンヌの魅力にとりつかれてしまった。
 こういうとき、遠藤さんはいかにも気のおけない友達で、ほとんど言葉はなくても気持は通じている。短いひと言、ふた言をうめくようにいう遠藤さんは、その間もセザンヌの画面から目を離さない。その目は率直な憧れと真剣な探求心を現していて、高校生の時からセザンヌに熱中したというその人の横顔は画学生のように若やいでいる。
 私は子供のころ、東京美術学校(現東京芸大)の奥の谷中で育った。父がそこで美術史を教えていたことから、私のまわりは画家か彫刻家、そして美校の生徒ばかりというなかにいて、いつの間にかロダン、ブールデルとセザンヌ、ゴッホの名前は少年時代から私の頭に叩きこまれていた。さらにいえば、ブールデルとセザンヌが合言葉のようあ土地柄だったし、そういう時代だった。遠藤さんといっしょにセザンヌを見ていると、遠藤さんは、昔、私を展覧会に連れていってくれた絵描きさんのようあ気がする。セザンヌの絵の前で遠藤さんは紛れもない“絵描き”の雰囲気を身体じゅうから放っているのだ。
 こういう遠藤さんは、いかにも綿密な自筆の年譜をその画集の巻末に付けている。とくに15才から30才にいたる青春期が詳しい。それによれば、高等学校の生徒だったとき、セザンヌとルノワールの複製画を見て ”色彩の対比と調和の美しさ”を知り、この二人の画家の ”色彩調和とマチエールの美しさに感動することはいまになっても変わらない”と書いている。またユトリロ、ヴラマンク、モディリアニ、ドラン、アンリ・ルソーの絵が好きで、さらに18才で東京に出たときルオーの回顧展をみて感動し、またセザンヌの「赤いチョッキの少年」の複製画をみて”色彩感覚のすばらしさ”に驚き、”透明な色の力に目を吸いつけられて…… 絵の中に入って行けるように感じる”と書いている。いかにも懐かしい話で、私自身のようでもあるし、また、私の一世代上の画家たち、すなわち不幸な戦争で苦しい生活を強いられた昭和前期の芸術家たちとも共通している。遠藤さんの回想は私たちほとんどの体験に他ならない。重ねていえば、遠藤さんはいかにも ”絵描き”というもっとも親しい間柄の人の一人なのだ。
 年譜によれば遠藤さんは武蔵野美術大学在学中にさまざまな画家、彫刻家から助言を受けている。求道的な遠藤さんだから、自分の作品を携げて、彼らのアトリエを訪ねたのだろうか。その半分以上は私も親しい先輩たちだが、そのなかでも森芳雄は永遠の画学生で、会えばセザンヌの話を持ち出した。また、三雲祥之助は、岡鹿之助さんのアトリエに集まった音楽好きの一人で、岡さんの選ぶレコードを黙って楽しむ穏やかな人柄だったが、ひとたび話がセザンヌとジョルジョ・スーラのことになると、画家のなかでスーラ研究の第一人者であった岡さん相手の議論に熱中して、レコード・コンサートが中断されてしまう。若い遠藤さんがこれらの人たちに教えを受けたことを思うと、画家遠藤の若い日のスタートがいっそう身近なものになってくる。遠藤さんが訪ねた画家の名前をみただけでも、遠藤さんと私の育ち方に共通の場があることを知る。
 さらに、セザンヌとともに、もうひとつ体験を共有しているといいたいものに、実は武蔵野の風景がある。遠藤さんの作品でいえば、武蔵野美術大学在学中と卒業後の武蔵野風景に他ならない。27才から28才に描かれた2点の油絵、1962年と63年の「牟礼の道」がその一例で、ここで遠藤さんはフォーヴィスムの色感と筆触に従いながら、セザンヌ風な構図、すなわち垂直線と斜線を強調し、道路の果てに予想される地平線を高くとることで自分の感覚を強め、画面に張りをもたせる工夫をしている。この2点は、あえていえば武蔵野あるいは東京の郊外の風景を舞台にして描きつがれてきた風景画の親しみ深い典型で、このとき27才の遠藤さんは、その伝統に従いながら、やがて京都の自然を対象に据えてゆく。
 武蔵野風景として、さらに一群のデッサンがある。大学卒業の年から始まって数年つづく鉛筆とコンテによるデッサンで、低い太陽を想像させる光線が裸の畠を照らしている。伐り残された疎林が地平線に寒そうに残っている。構図と、とくにその光線の捉え方は、1888年のアルルの野を描いたゴッホの風景画、とくに芦ペンによるデッサンを連想させ、ゴッホを尊敬している若い遠藤さんの率直な気持ちが楽しい。しかし明るいアルルの野とは違って、収穫後の武蔵野の土はことさら黒い。とくに夕方、晩秋の冷たい空気が地をはう武蔵野の淋しさ、暗さ。ゴッホは暗いオランダからパリに脱出し、そこで印象主義の絵に親しみ、さらに明るい光と色を求めて南のアルルの麦畑に画架を据えた。しかし、そういうゴッホの油絵とデッサンに憧れた遠藤さんの武蔵野に、ゴッホの明るい開放感はない。鉛筆、ときにはコンテを加えて線を重ねて自然のリアリティーに迫ろうと志した武蔵野はむしろ暗く、重い。それはほとんど国木田独歩の「武蔵野」を思い出させる。二葉亭四迷が訳したトゥルゲーネフの新鮮な自然描写を学んだ独歩の「武蔵野」はしかし、いかにも暗い。その暗さに私たちの青春はなれ親しんできたのだが、若い遠藤さんはことさら求道的なその性格から、同じように暗い情熱を傾けて武蔵野を描くことになったのだろうか。それともこのころ描いていた花の静物や糺の森の風景にみるバロック的とでいいたい厚いマティエールにおおわれた画面に連動する重苦しさがこれらのデッサンに現れていたのだろうか。ゴッホのアルルの野の構図を学びながら、遠藤さんは、実はゴッホのオランダ人の血、暗い北方人の感性をゴッホと共有しているように見える。
 遠藤さんは京都の人で、穏やかな、しかしいかにも人間臭いと私などには感じられる京都の自然のなかで育ち、それを一生描いてきた人に違いない。しかし、武蔵野を描いたとき、若い遠藤さんは、日本の近代文学と近代風景画を養ってきた武蔵野という題材を、優れた文学者や画家と共有することで、日本の近代芸術にぬぐいようもなくつきまとう体質ともいうべき暗さを分けあっていたと私は思う。
 しかしここでは、ふたたび話を遠藤さんの東京在住時代のデッサンにみる造形の問題に限りたい。武蔵野の土にせよ、玉川浄水のコンテの樹木にせよそのデッサンは暗く、重く、その特色は40才台に描いた裸婦のシリーズにも、その後の南禅寺付近の風景のシリーズにも継承されている。ようやく線の重なりが簡略され、造形秩序の抽象的な構築が明示され、強調され、そのデッサンに新しい魅力を加えることになるときはもう60才に近い。誠実な遠藤さんはひたすら自分自身を見つめて線を追ってきたのに違いない。
 ここでふたたび年譜に戻ると、遠藤さんは若いときから音楽好きであり、とくにベートーヴェンについては、“ベエトオベンの音楽への熱心な愛好は今日まで変わらない”と、18才の欄に書いている。ほかに好きな音楽家はバッハ、モーツァルトを除くとすべてロマン派に属しているし、遠藤さんのベートーヴェンに対する気持は、若いとき愛読したと思われるロマン・ロラン流の教養哲学に相当の影響を受けていると思う。自筆の年譜は若い青年の日記ではなく、成人してからの執筆なので、遠藤さんのベートーヴェン愛好は、その文字通り、生涯のものに違いない。その好みはドビュッシイでもなく、ストラヴィンスキーでもなく、バルトークでもない。音楽と造形美術の安易な比較は厳に慎まなければならないが、ロマン派びいきの遠藤さんは、その造形表現でも、ロマン派音楽のもつ長大で重い旋律を、断絶をつくらず、空白を置かず、無限に重ねてゆく特色を意識の下にひそめているのではないだろうか。遠藤さんのアトリエにお邪魔して、床に立てかけてある絵をあれこれと拝見していると、幾重にも塗り重ねられた絵具の層から生まれる色彩の濃密な呼吸に酔ってくる。
 さて、遠藤さんの絵について、もうひとつ、かねて考えていることがある。
 年譜の28才の欄に、”信仰をとりもどすために京都へ帰る”とあり、さらに”少年の日から親しかった純粋な京都の自然を描き始める”とある。年譜を通じて哲学と宗教に対する求道的な関心がたびたび語られていて、遠藤さんのいかにも京都の芸術家ならではの一面を思わせるが、この28才の感慨、とくに京都の自然を描く、という言葉を避けて通るわけにはいかない。
 ここで年譜をさかのぼると、遠藤さんは高校生のとき、光風会に連読入選するというはなばなしい出発をしたあと、安井曾太郎と須田国太郎を訪ねている。須田国太郎には作品をみせ、“貴重な助言を受ける”とある。須田国太郎先生に私はスペイン絵画史、とくに17世紀の黄金時代の絵画について御指導いただいたが、いかにも厳格な先生だった。画家による西洋絵画研究のなかで、ベラスケスなど、須田先生のスペイン絵画の研究はとくに優れたもののひとつだが、そういう先生の前に座って絵をみてもらっている遠藤少年のまじめな顔が目にみえるような気がする。須田先生は、いつも日本の洋画がフランス印象主義の真似からスタートしたため、絵具の肌がぼてぼてと厚く、生ぬるいことを嘆き、むしろスペイン絵画の勉強から出発すれば、本格的な油絵、すなわちマティエールの堅牢さと色彩の純度を会得することができたはずだと力説しておられたけれど、遠藤さんは何を教わったのだろうか。これからはまったくの空想なので、間違っていたらお許しいただきたいが、私は勝手に、このとき遠藤さんは17才(1952年)のときの「展望、蹴上より」を先生にみせたような気がする。17才とは思えないしっかりした作品なので、須田先生は少年をずいぶんと励ましてくれたことと思う。さらに私の空想は飛躍してしまうが、遠藤さんはこのときの出会いを大切にし、さらに須田先生の作品を研究して11年後、28才になって「展望、蹴上より」の1963年ヴァージョンを描いたように思う。遠藤さんがいう“純粋な京都の自然”を描くことのこれが第一歩だったのではないだろうか。この1963年のヴァージョンでは、遠い山とその手前の畠、家に薄塗りの絵具の層を重ねているあたりは、言葉少なくしかし緊張した画面をつくる須田国太郎の特色をよく学びとっているように思われる。
 これは重ねていうが空想上の仮説に過ぎない。しかし須田先生を引き合いに出したのには私なりの理由がある。私は京大の研究室で須田先生がスペインから持ち帰られたベラスケスやグレコの苦心の模写をみてスペイン絵画の勉強を始めた。しかしその模写は職人風の忠実な模写ではなく、明らかにベラスケスを自分の芸術の骨肉としてとりこもうとする先生の情熱の所産であった。そのような須田先生が、帰国して、スペインとはまったく異質な風土、光線、湿度、色彩のなかで油絵を描くという苦労、明治以来のすべての画家が留学から帰国したあとぶつかった問題に直面してつぶさになめた困難は想像にあまりある。
 そのことを思うと、セザンヌとゴッホに憧れた遠藤さんが、若い時にフランスに行かず、セザンヌのサント・ヴィクトワール山が持つ明るい光、そこで得られる明晰な遠近法とは縁遠い、湿度が高く、奥行きの乏しい京都周辺の風景に直面したときから、長い苦しみが始まったのではないだろうか。それは須田先生の御苦心をみずからのものにする遠藤さんの宿命でもあったと思われる。
 その遠藤さんの言葉に従えば”純粋な京都の自然”とは東山の蹴上であり、下鴨神社の糺の森であり、東山の南禅寺であり、赤レンガの疏水の水路であった。そして28才ではじめた ”南禅寺の風景制作はその後約三十年間続き、ライフワークとなっていく”とある。
 これら一連の風景シリーズのなかで、少数の例外、たとえば1968年〜69年の「鐘楼の丘より」や1975年〜96年の「疏水と木」のように、遠景の空が明るく抜けて見える作品を除くと、画面が重く、遠景も手前に引きよせられて、濃密な空気が停滞しているように感じさせるものが多い。遠藤さんは年譜の40才の欄で、 ”この時代より一枚の風景の油絵を数年〜十数年かかって描き加え、深めるようになる。三十代に制作した作品を描き加える。”といっているが、その言葉通り、自選画集に選ばれた作品の制作年代をみても、この仕事が10年にわたっているものもあるし、20年にわたるものもある。そういう大変な苦労をして遠藤さんは画面に自分の感覚をいっそう強く結晶させようとしたと思われる。遠藤さんは自分の絵を売らず、すべて手許に残してきた画家だからできたことに違いないが、なんだか晩年のルオーの話をきいているような気がする。もしこれが本の原稿のことだったら、その作業はあまりにも孤独で、私みたいに弱い人間はノイローゼになってしまうかもしれない。
 これらの作品のなかに、1970年〜96年、すなわち遠藤さんが35才から61才までの間に描いた「疏水と木」、また1975年〜96年、すなわち40才から61才に描いたもう一点の「疏水と木」がある。この森の樹木とその枝の垂直線と斜線を、セザンヌのように組み合わせた作品の絵具の肌のつくり方をみているとオランダからパリに出てきたゴッホが感動したモンティセリの絵を思い出す。
 ゴッホが突然弟テオを頼ってパリに出てきたため、テオはモンマルトルの丘の上に、それまでより広いアパルトマンを借りて、兄を迎え入れる。テオはその部屋にモンティセリの花の絵を掛けていた。この絵はいま、アムステルダムのゴッホ美術館の三階にある弟テオのコレクションの部屋に展示されているが、ゴッホはこれに触発されて花瓶に入った花の絵(1886年夏制作)を描いている。誰からも理解されず、パリから郷里のマルセーユへ帰って窮死してしまったモンティセリの作品にゴッホが感動したことは有名な話だが、このゴッホの花の絵(オッテルロ クローラー・ミュラー美術館蔵)をみると、絵具を厚く盛り上げ、それによって起こる乱反射のなかから宝石のように重く輝く花を描くモンティセリの手法にゴッホがどんなに感動したことか察せられる。ゴッホに憧れた遠藤さんは、はからずもモンティセリのように、あるいはその花の絵を勉強したときのゴッホのように、短い筆触で分厚く、しかし堅い画面をつくり、その不均斉な肌から生まれる光の反射によって色彩の輝きを工夫したのだろうか。それとも10年も20年もかけて画面に手を加えた結果得られた必然の効果なのだろうか。この2点、遠藤さんのアトリエの中でいつも明るい光をふくんで人を待っている。
 ゴッホはパリに出て、モンティセリの色彩と、印象主義の光と色彩に自分の感覚を明るく開放していったのに、武蔵野の郊外風景の油絵で明るいスタートを切った遠藤さんは京都の自然を描く重厚で重い画面にみずからを閉じこめていった。須田国太郎の作品を研究したかと空想をそそられる「展望、蹴上より」の第2ヴァージョンの薄塗りのマティエールも、たちまち「糺の森」(1963年)のような分厚い肌に変わってゆく。1971年から81年にわたる「僧堂への道」や1971年から72年に描かれ、82年に加筆された「南禅寺裏山」は自然の風景であっても、同時に宗教画でもあって、遠藤さんは京都の自然を借りて内面の世界に限りなく沈潜してゆくように思われる。セザンヌがいう自然から精神をひき出し、それを自分自身の感覚に置きかえて画面に構築するという苦渋の道で、遠藤さんもまた遠藤さんのやり方で苦闘している。
 遠藤さんといっしょにセザンヌの風景画の前に立つとき、二人が言葉もなく凝視していたのは、その遠景が遠くへ突きぬけ、拡がっているその奥行の深さであり、それを実現している色彩の階調と対比の正確さであり、さらにそこを流れる光の明るさであった遠藤さんが1989年、54才のときに描いた水彩画に「八瀬の庭」2点がある。2点とも水彩画ならではの透明な色感を生かした気持のよい作品だが、画面に流れる明るい光を画家は楽しんでいるように思われ、とくに8月から9月に掛けて描いた第二作は薄塗りの余白が活かされている。私たちはここで自分の感覚が開放され、親しくこの作品に入ってゆくことができる。画面の完成をもとめて苦闘する遠藤さんの風景画の前でたじろぎ、棒立ちになった私たちに画家はその心を開いてみせる。セザンヌの塗りのこした余白が私たちの空想を刺戟し、セザンヌの世界に誘いこまれるその魅力を遠藤さんも意識しているのが、この「八瀬の庭」だと思う。
 このとき画面に実現した清新な光は、同じく1989年に描きはじめた油絵「初夏の植物園」(95年完成)と「初夏の花園」(未完成)にも現れているし、それぞれ1990年〜95年に描かれた「秋の永観堂」と未完のそれにいっそう明らかになっていて、セザンヌの風景画の骨格を形成している新しい次元の遠近法に遠藤さんはその心をあずけているに違いない。とくに未完の「初夏の花園」は、パリに出てきたゴッホが熱中したモンティセリの花、宝石のような光をふくむその赤い花が前景にあって、その響き合うような美しいハーモニーが、画面の上半分を占める森と空と快く組み合わされている。垂直線と水平線の構造も軽快で、私たちの目は自由に画面を散歩することになる。常に完璧をもとめて止まない遠藤さんはこの作品を“未完”といっているが、もうここで完成しているのではないだろうか。遠藤さんの30才代、40才代の作品はデーモンに執りつかれたように形態が増殖し画面をふさいでいるが、そのほとんど動物的な精気もようやく沈静化して、画面は新しい秩序の構築に向っていると思われる。私はこれを壮年期にみられるバロック的な過剰から知的で古典的な秩序の再構築に向う画家の必然的な道程と考えたい。
 遠藤さんはいかにも克明に自分ひとりの道を歩んできた画家だ。たとえば1962年、27才のときコンテで描いたデッサン「玉川浄水の樹」があり、その36年後、1998年、63才のときに始まる鉛筆によるデッサン「大樹」のシリーズがある。遠藤さんはこれを自選画集に収録しているが、その間にも1993年の鉛筆と墨によるデッサン「根幹」などがあり、なんとも遠藤さんはその生涯をかけて、大地にそそり立つ一本の大木を描きつづけている。はじめ大地とともにほとんどまっ黒に塗りつぶされていた大木が、鉛筆による太い縦の線と横の線の絶妙なアンサンブルをみせ、63才の連作では斜線の樹木が背景に加わり、大地に根を下ろした大木にドラマティックな舞台があたえられる。黒一色の大木を描きつづける遠藤さんはこうして造形の実験を丹念につづけているのであろう。
 このような実験の成果のひとつに1997年、62才のときの作品として、鉛筆、油彩と墨によるデッサンと、鉛筆と墨のデッサンによる「修験場」を遠藤さんは同じく自選画集に入れている。フランス印象主義絵画の歴史と理論研究の第一人者であるジョン・リウォルドは、そのセザンヌ研究のなかで“純粋なデッサンはひとつの抽象である”というセザンヌの言葉を紹介して、自然から形態を抽出するセザンヌの困難な作業を語っているが、この鉛筆と墨による「修験場」は長い途上にあって、黙々とデッサンという造形の実験をつづけてきた遠藤さんが手にしたひとつの展望に他ならない。多数の油彩を長い時間をかけて、修正を重ねるその苦心と、デッサンの実験をつづけることが表裏一体となっている遠藤さんの制作は、休むことを知らない永遠の旅であり、いまあらためてそういう遠藤さんの前に、いっそう大きな可能性が開けてゆくことと思われる。

 
 
 
 
 
 

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