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寄稿文 黒江光彦

東北芸術工科大学教授、美術史家

 

寄稿文
「朋友として遠藤剛熈画伯へ」

 けれども少年期まで遡ってみれば、われわれは、国民学校の図画工作から始まって、戦後のひもじいけれどものびのび個性の自由な絵描きの世界へと解放されたという同じ経験をもっている。
 はじめは、お手本をそっくり写すとよい点がもらえる教育であった。形を写し色を真似することからはじまって、ぬり絵と変わらない。そして写生。チューリップの生長記録を絵日記風に描き、果物の静物画を描き、スケッチ板をもって街並みを描きに出て、写実ということを学んだ。
 観るということを教わったのである。戦争中であろうと戦後であろうと、空間の把握と表現のコツは、観察から学びとるものであろうが、われわれの世代は戦争中の”古い” 教育の時期であったにすぎない。
 戦争が済んで、いきなり自由がやってきて、描く絵も個性が出ているのがいいことになる。民主主義と同時にモダン・アートへの展開を味わったのであった。
 それでも剛熈少年は、写実を選んだ。いま人は彼の絵の中に “古めかしさ” を感じているとすれば、少年期に深く根ざした写実の心と手が枯れることなく存続しているからであろう。人生を絵筆一筋に考える剛熈少年は、青年期へと至るまで、変節することなく「写実」に徹しすすんでいる。
 昨年暮に、剛熈画伯のアトリエを訪れる機会があり、お土産替わりにというと変だが、ある五十号一点の修復を引き受けてきた。画伯の若描きで、題名「中書島油脂工場」とともに昭和27年の年記が絵の裏にある。運ぶのに大きすぎたという理由からか木枠が真中から蝶番で折たためるように工夫してあって、時間が経てば絵の真中に縦に大きな剥落が生じていた。それをお正月休みに修復したのであるが、絵具の粘りを感じさせる筆触が快い若描きであった。工場の建物や煙突やタンクが、明暗と色価の快い色面分割によって配列されて、高校生にしては出色の出来栄えとみた。
 「三十八回光風会展出品」と題名の下に記してある。「遠藤剛熈画集」(1999年)に載っている年表の中に「天才少年の大成を期待する」と書かれたことの実体がここにみられるのである。若き日の剛熈画伯は、のちの厚塗りとは違って、盛り上げをあまり意識しない、水性絵具と同じような平らな塗りを基本にして絵を組み立てている。
 若い頃のモネがしきりにクールベのマティエールに惹かれていたことを憶い出させるような作品といえるかも知れない。セザンヌやルノワールが、ドラクロワの色彩とコローの抒情とクールベの写実とマネの近代性を学んで育ったように、剛熈少年もまた年表の中にその当時を顧みている。高校から大学へ、彼は画描きの路を当然のことのように歩み出す。いつも悩みを抱えながら‥‥。
 「遠藤剛熈画集」の「制作の歴史・出会いと交流」は、同い年の私には一年一年が、一行一行が、自分のことのように脈打って感じられる。少しのタイム・ラグはあっても、若者たちがどんな波にもまれさらわれ、どんな風に頭を波頭の上に出して自分の呼吸をとり戻したかが読み取れるようで、他人事ではないのだ。
 例えば、私は大学院の一年次に半年間、毎週恩師の選ぶ絵の模写をやっていたことがあって、美術史を先史時代から現代まで下ってくるうちの二十枚目位で同じセザンヌの作品に出会った。スイスかドイツで印刷された大版の複製画を壁に貼って、六つ切位の大きさに縮小して三日三晩かかって模写をした。あの少年の腕のムーブマン、赤いチョッキを中心に渦まく形と色の堅牢な造形を写しながら、私は絵の描き方を学んだ気がする。
 画伯の年表にいわく──「セザンヌの “赤いチョッキを着けた少年” の油絵を当寸大の複製画で見た瞬間、色彩感覚のすばらしさに驚嘆する」──剛熈画伯もまた顧みて「その感動は絶対的な新鮮さと純粋さと潔癖さとでも言うもので、透明な色の力に眼を吸いつけられて、まざまざと世界が開けて、絵の中へ入っていけるように感じる」と書いている。
 造形を志す若者が、かつて共通の作品の前で、人生の組み立てさえも教示されていることを想うと、いま深い感慨を覚えずにはいられない。
 またその頃の若者は、チューブからしぼり出した絵具のマグマにもたいてい誘惑された。林武のパレットナイフで塗り上げた作品が出まわって、眼をひきつけた頃である。
 剛熈少年も、はまった。やはりはまってしまった。あの厚塗りの世界へ。ゴッホの厚塗りが頭の中にちらついて、絵具を塗ると、いつの間にかねっとりとした塗りたてのマティエールに惹かれていったのではなかったか。若描きの「皿に果物」や「関町のキャベツ畑」から始まる厚塗りで溶岩を流したような絵肌の肖像画や、花弁や葉や花瓶さえもが浅浮彫りのような烈しい絵具の塊状を呈する静物や、ごつごつした樹の幹の皮を想わせるような森の絵を描きすすめている。このような絵具まみれの生地獄の中で、小林秀雄に会いに行って「デッサンをやりなさい」といわれて我にかえる。彼が年表に添えたコメントからは、そんな風に私にはみてとれる。
 「武蔵野の土」の鉛筆デッサンは、素描家・剛熈の始まりをしるすものであろうか。素描をすることで自然を見つめ直し、「若い裸婦」に量感を把み直し、友人の顔によって素早い観察眼と筆力を試し、「玉川浄水の樹」で黒々とした量塊の強さと存在の確かさを表現するに至った。「反省と克己の自画像」──その作品自体もさることながら、その表題の語が、彼がデッサンすることの意味を表しているのだと思われる。
 彼のデッサンには、量塊や空間の構成の仕組が一貫して読み取れる。力強く的確で、それを人格的な言葉でいえば真面目なデッサンである。人体にしても樹木にしても、線はまず構造線として意識される。陰影、明暗で立体を表現するのではなくして、稜や面やその奥に貫通する構造の方位を示す線の束で量塊感が表出される。
 量をもたない線によって、二次元と三次元に挑む。だから鉛筆や木炭やコンテの線は、これでもかこれでもかと濃度を増して、黒々と塗り潰すことになる。生真面目な彼のことであるから、線を重ね、描き込まずにはいられない。
 70年代以降の女体のデッサン群は、圧倒的な力感で、素描家としての力量を示している。マイヨールの彫刻を連想させる「日本の女」シリーズは、完結した作品として、この画家の作品譜にしるされる。マイヨールの愛したディナ・ヴィエルニーは、下半身の安定した日本の女のような体形の故に、造化のモデルとして愛されたのであった。そのような彫刻家の粘土をこねて肉付けする手のひらの動きが、剛熈画伯のデッサンの中に跡づけられているようにみえる。構築する精神がそこにはみなぎっているからである。
 油彩画家・遠藤剛熈の歩みは、天性の色彩感覚に恵まれて、かえって平坦ではない。繰り返し、彼の作った年譜「制作の歴史・出会いと交流」に立ち帰って彼の展開をたどっていけば、彼のそのときどきの色彩研究を指摘する箇所に遭遇する。彼が絵を見てもらいにいった人々はこう言う――「色彩感覚がある…尋常でない」(松田正平)、「色彩が美しい」(村井正誠)、「パッションがある」(森芳雄)、そして「大変な才能がある。絵具に執着がある…」横地康国)、「この強烈な色で描いている気持ちはわかる。才能がある」(小林秀雄)。etc
 その作品群については、厚塗りの世界にはまったところで既に述べた。「デッサンをやりなさい」(小林秀雄)の言葉に奮起してデッサンに励み、武者小路実篤にデッサンをみせに出かけて聞いた言葉は「よいではないですか」。そしてもっと嬉しい言葉は、実篤からの「色がみたい」の一言であったろうと、私は理解している。「とらわれずにやるのだね」という別れしなの言葉は、独り立ちの時を告げるものと、私は受け止めている。
 私は、遠藤青年が、誰かまわずといっていい程、超一流の人びとに臆することなく会いにでかけていることに驚いている。東北出の田舎者の私にとっては、同郷の先輩に会うことさえも気恥ずかしく畏れ多いという気持ちで、気押されてしまうのだが…。うらやましいといえば、嘘ではない。
 「剛気」なのであろうか。実篤の言葉は、彼には「自分を生かす孤独の普遍の道を行け」と聴こえたと、年譜には書いてある。そして京都へ戻る。
 京都の自然と取り組む。油彩画の限りを尽くして描くために、そして自己を見出すために、「行」のような制作が続く。南禅寺風景のシリーズは、「心」と「素材」と「技法」の試練、素描と色彩の融合への営みの格好の舞台となった。
 彼の色彩について語ってくれた前出の人たちの言葉の中で、私には横地画伯の「絵具に執着がある」という評言が剛熈の油彩画に最もふさわしいもののひとつに思える。
 一生懸命塗り上げねば成就しないと、彼は思い込まなかったであろうか。生きているという実感が、作品に刻印されなければ許せないと自らに言いきかせながら、これまで生きている。数多くの人々に教えを乞い、数多くの作品に感動し、誠実にその一つ一つに己の答えを発しつづける。画布は絵具の重みでたわみ、裏に板を当て直し木枠に張り直す。幾年にもわたって一つの絵を磨きあげる。たしかに絵具の肌合いは、一気に塗り上げたものよりは熟成し、年期をかけたものでなければ出せない効果をもっているのだが、昔の色を塗りこめた分だけ、昔の自分を否定したことにもなりかねない。それが精進というものであろう。
 「僧堂への道」「土手と木」「水路閣と石段」――これらの作品は、デッサンによる構築の営みの上に、色彩を載せていこうとする試みを如実に示していて、興味深い。画肌の下に、構造の鉄線をはりめぐらせるとでもいえようか。色彩だけで仕事をしているかにみえる作品の中でも、塗り上げた色面だけでは不安とみえて、ついつい木炭やコンテで線を入れたくなるらしい。構造線なしで空間を表現することの難しさを超えねばならないとき、絵具の厚みを増し、美しいが息苦しいまでの色の対比が生まれたりもする。
 求道的な生き方を貫いて人生六十五年。攻めて攻めて、攻め抜いてきた画業である。絵具を塗り重ねることで、絵画を形作って五十年。絵具を惜しむことも労を惜しむことも知らずに、修験者のような画家といわねばなるまい。冬の冷気の中で裸木を写生する。その荒行にも似たさいなみが昇華するとき、ふと絵具がうすくひろがり、筆線がさざめくように画面の中で遊ぶ。近年の絵は、そんな「分散和音」風の響きをもっているように感じられる。
 遠藤剛熈の根底には「写実」がある。幼い頃から脇目もふらずに、愚直とさえ言っていいような一徹さをもって写実主義を貫いてきた。彼は「西洋芸術の根本は古代ギリシア以来 “人間・人体” であることがわかる。気づくのがおそかったが、今がラスト・チャンスだと思う」と書いているが、それは彼が古代ギリシアに接したのが遅かっただけで、写実の根底にある自然主義を日本の風土を通じて長い年月かけて身につけているのである。
 彼は自分という核を強固にもっていて、そこに多くのものを取り寄せつづけてきている。それは彼にしてみれば、いろいろなものを取り寄せずにはいられないという強迫観念にも似た衝動からしゃにむに体当たりしてきたに違いない。
 今年六十五歳の私が思うことは、自分の思うままに生きなければという想いである。だから遠藤剛熈画伯に望むのは、あるがままに、迷うのが自分らしければ、思うままに迷うべし。デッサンと色彩の間で…。

 
 
 
 
 
 

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