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手紙 近藤英男

近藤英男 氏
奈良教育大学名誉教授 体育学、スポーツ芸術学

 

手紙
「久し振りに心魂ゆさぶられる展覧会に接し感動 最近にない梵我一如の絵画」

近藤 英男

 久し振りに心魂ゆさぶられる絵画展に接し、感動いたしました。今年始めに、お目にかかった牧野芳子さんからおさそいいただき、会場にみなぎる〈気〉のすさまじさに圧倒されそうで、最近にない梵我一如の洋画とうれしさ一杯でございます。京都にこんな画家がいらっしゃる‥‥ そして日本画家でなくて洋画の方 !! 実は私も京都桃山中学出身、兄弟の三人共桃山の地で学びましたので、京都市内の友人もたくさん居ります。兄が第三回卒、弟が八回、私が六回、当年とって八十七才の老書生でございますが、家には小さい画室もあり、昔、長兄が絵を描いていたのです。師は鹿のこ木先生、宮本三郎と同門でしたのでカンバスや油絵具が押入れにたくさんありました。
 さて家にかへって、いろいろの記事拝見。画家として、詩人の眼をもち、哲学者求道者としてのデルタ構造のきわまりとしての画業と心打たれました。そしてかずかずの作品の裏づけとなっていることにも深い感銘いただき夜をすぎ朝の四時半頃迄拝見していました。
まずおどろいたのが鉛筆ケント紙にえがかれた〈裸像〉(日本の女)の連作は私にとって佛像と映じました。アニミズムとエロティシズムの昇華された密教の理想像にも通底する〈女性讃歌〉の佛像そのものです。ここには若い女がはだかのままのすがたで佛女として光をはなっています。
 かずかずの密教佛教に通じる不可思議のきわまりとしての梵我一如の女体即佛像として圧倒されました。
 そして私にはあのジャコメッティのデッサン「人間頭部」がすさまじく交響して参ります。
生きた直線と生きた曲線によって構成されていく画面の生命感。セザンヌのいったよう「すべてのものは「円筒」「円錐」「球」でできている」に通底する球体の流動 !!(宇佐見英治著「方円 筆」二三頁 みすず書房刊)フランス文学者にしてユニークな図像学研究者之に対応するのが〈大樹〉のかずかずの連作。(鉛筆と墨)
 この大樹も大樹を超えた〈御神木〉〈御神体〉としての巨木のもつ霊的存在の宗教的世界‥‥ 大和三輪山には神社なく、山そのものが神そのものとしてある。自然即神の不滅に通ずる古代信仰の〈現前〉ここでは「直線」と「方形」も加はりセザンヌを超える「空間形成」- “Raum gestalt ” ラウム – ゲシュタルト – 舞踊用語でラバンの言葉 – 舞踊は人体のうごきによる新空間の創造 – がかんじられてなりません。
 (三十数年前モダン・ダンス研究のためドイツに参りラバンやホーデ、ヴーグマンなどに学びました。)
 ああ遠藤先生は画業でこの新しい「ラウムゲシュタルト」をやっておられる。しかもその美学の根底には、ヨーロッパ的なもののもっと深層アラヤジキ層における東方的仏法的なものに裏打ちされている。空海やチベット密教にも通じる(禅や浄土)を超えた生命感のヤクドウがしみこんでいる !! 禅の幽玄を超えた生のままの生命感コスモロジーエコロジーとも共生(コンビバハラー)する摩可不思議な存在感、生命感、宇宙観のすばらしさ新鮮さそして深遠さ、聖図とも佛画とも通底する造形的な一宗教的世界と体感される稀有の〈視覚構造〉‥‥ ことばなし、ことばなし !! 只々見入るのみ、見入るのみ !! 無心に見入るのみ‥‥言葉はないが、おくぞこでキラメクもの、身ぬちに体感される宇宙的造波 !!
 このデッサンは「絵画の俳句」白と黒の世界。「白即黒、黒即白」の(色即是空、空即是色)のデッサンを克えたデッサン、ヨーロッパ的デッサンを起克する東方的デッサンの極点 !!
 そして第三、之に色が加はり更に〈視覚構造〉としてくりひろげられるのが「水路閣と石段」の作品。
 これはあの裸婦デッサンと大樹の二つの世界を更にふかめる「視覚構造」としての色の世界へと飛躍 !!  交響。「色と形の交響美学」色と形が〈相舞〉(世阿弥の造語 シテ、ワキの踊りと妙言)となって現出。墨淡の美の本体二つがからみ、つながり、あらそいあいまじりあい、東方の書法芸術にはみられない〈虹の美学〉チベットの「レインボー・サーバント」〈虹の蛇〉につながっていく。
(中沢新一著「虹の理論」新潮社)
 ああ須田克太のかいたゴビ砂漠 夕立と虹(1974年)の交差する〈白い二重虹〉にもつらなっていくのです。
 哲学的宗教家、中沢新一の世界と須田克太の絵画造型にもどこか一脈通じる遠藤先生の〈絵画的世界〉がかいまみされてなりません。
 須田先生は、お目にかかったしお話もしかわしたすばらしい画家 !! 須田国太郎先生と共に忘れ得ぬ二人の須田先生として私の記憶に生々しいので、いつか又。
 遠藤先生が〈抽象画的な画業〉にも是非展開してくださって先生の「問身証三昧」として見ぬちに秘められている、円と方形・円すいと直線の持つ美の世界の、開現開顕をも試みていただきたいなあ─と、夢みている所、先生のアブストラクトの世界って一体どんな世界と、怖ろしいようなきたい感にうなされて仕方ございません。〈非在・実在〉を起克する新しい実在としての〈  絵画〉として〈音楽のような画〉が生まれるのではないかと夢像されるのみ !!
 先生の「生々しい生きているかきたての画」を想像しつつ画集をひもといているのですが今日はこれで一休み。先生の画集にはもっと真っ黒になるまで余白に感想かきこんでいます。之を整理すると、私なりの(しろうと画讃)が生まれそうですが、その点 “しろうと” は有難く専門的な事知りも解りもしませんので、おもった通り、かんじた通りすなおにかいてゆけば、十万分の一位は遠藤美学の一端にせまることができることもあろうと、之からの楽しみ。是非私なりのしろうと老生の「遠藤剛熈論」をかかせていただきたく御許しくださいますよう、お願いいたします。
 迷字、誤字で半分読めたらいいくらいの連筆悪筆でおゆるしください。之をキチンとさせていただくつもりですが‥‥。どうしても仕上げなくてはならない仕事の上の道楽《スポーツ曼陀羅》を仕上げなくてはなりませんので、一応失礼させていただきます。
 近く又第二回目に大宮の会場に参り、再見させていただくつもり。やはり見合写真より直接見合によって対話させていただかねば、美の秘密や真価はそうかんたんに得られません。是非二、三回拝見し、会話させていただき、頭の中や身体一杯に洗礼のように流出する美の放射線の中で、じっくり先生の画業、タッチ、流れにそって《言葉なき対話》を楽しませていただきたく存じます。
 そして又、直接御教授の上、いろいろな話をする機会もいただきたく、老生生涯の夢としてお許し下さいますよう御願いいたします。
 ながながとわからぬこと、オートマティックに流れるままにかきつづり失礼の段御許し下さい。

               一九九九年七月五日

               南日しゅう平 記
               遠藤剛熈先生

 

 

近藤英男氏は2008年3月に逝去。

 
 
 
 
 
 

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