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一、 真実の自己を見つめることのすすめ。

 
 
 
 世の多くの人達は、若い頃の一時は自然の真理の探究の志向をもっても、いつのまにかその勉学にいそしむことを忘れ去り、俗世間の生活の中で真実の自己を見失ってしまう。
 自然の真理への信仰を、知識や理論で考えただけで、又、軽々しく口に出して語り言葉で書くだけで、実際に自然の探究の創造的な仕事に身を捧げて、作品の中に黙って自分の魂を刻印する人は少ない。
 真理は他人に説き、他人に教える前に、先ず自分の眼で見て、自分の耳で聞き、自分に教える(学ぶ)ものである。
 自然は他人に説き、他人に教える前に、先ず自分の眼で見て、自分の耳で聞き、自分に教える(学ぶ)ものである。
 
 
 
 
 
 
 
 自己の魂の尊厳を持つ人は、理想が低い者達が欲して手に入れるさもしいありふれた成功や、鋭い感覚と独創性を欠く凡庸な亜流の学問や芸術や、マスコミが宣伝する通俗的情報文化や、既成集団の党派的狭量と独善や、曲学阿世の似而非の思想や宗教や芸術から超然とすべきである。
 そうして現実の自然の実在の生命の絶えざる探究における、凝視と観察と観照から生まれた、(学歴や世間的地位などの見せかけではない)自分自身の思想と知力と行動力がある、全身全霊的な教養を身につけることが大切である。
 
 
 
 
 
 
 
        

自然の真理の探究者は、自己に厳しい修道士(女)でなければならない。

 
 自己を燈明とし、自己を依処とせよ。他者を依処としてはならない。
大自然の法(真実)を燈明とし、法(真実)を依処とせよ。

               釈迦 

 全世界を得るとも、本然の自己を見失い、自己の魂(命)を損ずれば、
真実において何一つ得るところあらん。
                          
              イエス

 
 この二人の聖者の言葉は、自己の一生涯の芸術の仕事のための、不動の教訓であり続けている。
 
 
 
 
 
 
 

自己の発見、確立、完成。自他一如。

 
 太古から近代までに、人間が創造して来た、偉大な精神文化伝統を尊崇し畏敬する人間にとって、巨匠、大家、天才は生涯の模範であり師である。しかし徒に彼等を模倣し盲従せず、他者の眼ではなく自分自身の眼で、最大の師である自然の実在を深く見て、自己の(性格と個性がある)作品を創造することが大切である。

 ヌース(実在)は自己を認識することによりて、(自己より)他のすべてを認識する。       

      トマス・アクイナス(アリストテレス形而上学註解より)

 
 仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘るるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。

               道元

 自然の実在の生命に直接に対面した時に、個(自己)が全体に対応する瞬間に、時空を超えて世界への愛の心が生じる。感覚と精神。愛と認識。
 
 
 
 
 
 
 

沈黙。瞑想。精神統一。

 言葉がないから見えて来る、
 音がないから聞こえて来る、
 存在や世界がある。
 世俗を離れて神・佛に全てを献げ切るカトリックや禅の修道士のように、画家は自然の中に神・佛を探究し独り修道する。
 自己の修行をおろそかにし、世俗に埋没し、人を相手にしている生活を捨て、神・佛を相手にせよ。
 宗教家も芸術家も共に、一生涯の沈黙の中の、無償、無名の仕事である。
 神・佛のためであるから当然である。
 制作は自然を前にした敬虔な独りの祈りである。
 
 
 
 
 
 
 

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