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二、 本当のデッサンのすすめ。

基本(デッサン)に始まり基本に終れ。

 
 全ての人は結局、人生においても、仕事においても、各人の基礎力(デッサン力)以上のことも、以外のことも出来ない。
 本格的な基礎力(デッサン力)を身につけるために、若い時からデッサンの勉強に励まねばならない。
 生涯休まず日々(たとへ一時間でも)デッサンをすることだけが、一角の人間と、創作者になる唯一の道である。
 
 
 
 

日毎の務め。デッサン。写生。

 
 画家の仕事の目的は、自然の真実の存在の生命の探究である。
 探究には基礎・根本が大切である。
 基礎・根本はデッサンである。
 デッサンと写生は同じ意味である。
 写生は真実の存在の生命を写し取り表現することである。即ち生きた神・生きた佛を写し取ることである。写神・写佛することである。
 写経は神・佛の生命(魂)の教えの言葉を写し取ることである。 
 神・佛に仕えて修行する僧侶と同様に、画家は自然なる生きている神・佛に仕えて修行し、日毎の務めを果たす。

 
 
 
              

釈迦の教訓。只デッサン。

 
 釈迦にシュリハンダカという名の弟子がいた。
 生来何をやっても愚鈍で、物覚えのわるい人だったという。父と兄につれられて出家して釈迦の僧団(サンガ)へ入りたいと願い出たが、釈迦の前で何も言えずただおろおろしているので、父と兄はもうこれまでと思ってシュリハンダカをつれて引き下がろうとした。
 その様子を見ていた釈迦は、シュリハンダカに、お待ちなさいと声をかけた。そうしてごく短い教えの言葉と、箒を一つシュリハンダカに手渡した。毎日この教えの言葉を唱えることと、箒で早朝から僧団(サンガ)の中をすみずみまで掃除することを命じた。そのことをシュリハンダカは一生懸命に守り、長い歳月の修行に励み、ついにシュリハンダカは聖者(阿羅漢)になった。

 法句経に次の言葉がある。
 口にする多きによらず、聞くところ少なしといへ、聞くままに身に行ひつ、能く守り等閑にせぬ、かかる人なむ法(ダルマ)を護持する。

 私は聖シュリハンダカのようになれたら誠に幸なことである。

 デッサン=基礎・根本をやりなさい。この一言が釈迦の私への教えである。
 只デッサン!。只管打坐、只念仏、只題目、皆同じである。

 
 
 
    

釈迦牟尼の教訓。

 
 絵画の仕事は、若い時から一生涯の長い歳月を、自然に厳しく対峙して、全力をつくして制作する、強い意志と忍耐と体力が必要である。

 謙虚に初心を忘れず、デッサン=基礎・根本の勉強に励むことが大切である。

 基礎の力があってこそ、その上に独創的で普遍的な世界が開けて来るのである。このことは絵画のみならず全ての芸術、全ての科学の仕事についても言えることである。

 佛道、佛教の創始者の釈迦牟尼のムーニは沈黙の聖者の意味である。
釈迦は独り黙って自己の精神の眼で、自然萬象の真実を深く徹底して見た人である。

 語るな。独り黙って自分の眼で、自然の存在自体を深く見て、全身全霊で自己の仕事をする男の強い意志を持て。
 これが画家の自分への釈迦牟尼の教訓である。

 現代芸術は独り黙って自然を深く見ることも、デッサンをすることもしない。そうして勝手気儘なことばかりしゃべりまくっている。

 世の中の遊戯や娯楽や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。

               釈迦牟尼(スッタニパータ)
 
 
 
   

イエス・キリストの教え。

 
 前述の釈迦の言葉を、次のイエスの言葉に置き換えても、全く同じことである。

 若き日のイエスは基礎・根本が確かな勝れた大工であり建築家であった。

 「働き者(誠実な職人)には主(イエス自身のこと)は不要である」。

 人が自分の業(仕事) を愛するに勝るものは、この世に外に何もない。

と聖書に記されている。

 自分の仕事に愛を。

 この一言が、芸術家の私へのイエスの至上の教えであり、純一な福音である。
                             
 屋外の自然の空の鳥と野の百合を教師として沈黙することを学べ。人間の言葉を弄するな。現存在に即して神の国とその義を探究せよ。真摯に全身全霊で自己の仕事をせよ。

              イエス・キリスト 
 
 
 
              

 
 
 
   

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