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ソクラテスにおける無智の智と愛智  philosophia。


 ソクラテスにおける無智の智と愛智    philosophia。

…ソクラテスの友人カイレフォンが、あるときデルフォイ神殿に赴き、ソクラテスよりも智慧のある者がいるか伺いをたてた。すると巫女は、誰もいないという答えを返した。
 事の大小を問わず、自分が智者でないと自覚している。
 ソクラテスは戸惑うが、やがて、自分より智慧のある人間を探し出せば、神の真意を問いただせると思いつき、智慧があるとみなされていた政治家、作家、技術者たちの吟味を始める。しかし、ソクラテスが見いだしたのは、彼らは自分が智慧があると思い込んでいるが、実際には智慧を持っていないという事実であった。ここからソクラテスは、真の智者は人間ではなく神・絶対者のみであり、それに比べれば人間の智慧は無価値であること、そして、その事実を悟ったソクラテスこそが、最も智慧ある人間であることを発見する。

 我々が探究しなければならないものは、真実、実在、生命、魂、思慮、正義、理想であり、これに対して、追求してはならないものは、金銭、物、土地、身体、安楽、栄達、名声などである。しかしこれらは、人々が現実に追い求めているものであり、現世の善であると見なしているものである。ソクラテスの愛智活動とは、こうした誤った善の思い込みを払拭し、真実と魂に基づく正しい思慮、思想、理想へと人々の心を変革させる活動だったと考えられる。
 ソクラテスにとって、真実と魂に配慮し、魂ができる限り優れたものになるようにするということは、心が真実へ向くことによって、イデアへの思慮、思想を身につけ、それを通して、正しい行為をする人間になることであるように思われる。
 このように、ソクラテスの愛智活動は、単に人々の無智を暴露するだけの否定的な活動ではない。それは、生活の行動に関する誤った枠組を破壊することにより、人々の視線を永遠の真実を見る方向へと変え、それによって人々に公正無私の倫理的な生活を促す活動だったのである。
 愛智とは、無智を悟ることによって、無智に由来する誤った生から脱出するための営みである。その意味で、愛智は無智の智と表裏一体なのである。
                中澤務
                (当方で自由に書き替えた)

 
 
 
 
 
 

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