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全人類の理想の追究と芸術表現。


一 
全人類の理想の追究と芸術表現。
古代からのインドとギリシャとヘヴライと
シナの思想と文化の交流と融合の歴史
の継承と現代における創造。


 

更に叡智と健康を。

                

京都市立堀川高等学校の恩師 吉原吉人

 

いつまでも青年の活力を、そして、
絶えず人間たるための良心の戦いを。

          

京都市立堀川高等学校の恩師 米田貞一郎

 

芸術家である前に人間であれ。

かくありたいという願望を。
かくあらんという理想を。
かくあるべきという正義を。
かくあらねばならないという克己を。

 
 
 
 
 
 

     青春

     サムエル・ウルマン

青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

   人は信念と共に若く   疑惑と共に老ゆる
   人は自信と共に若く   恐怖と共に老ゆる
   希望ある限り若く     失望と共に老い朽ちる

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。

 
 
 
 
 
 

青春の夢に忠実であれ。


人間を偉大にしたり卑小にしたりするのは、
その人の志である。

        フリードリヒ・フォン・シラー

 
 
 
 
 
 

大切なのは、強い意欲と高い理想をもって、
それを貫き通すだけの、力量と忍耐とをもつことだ。

        ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

 
 
 
 
 
 

        最高の目的と理想。


 

最高の目的と理想を達成するために努力策励し、
心怯むことなく、行いに怠ることなく、毅い活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。

         ゴータマ・シッダールタ・ブツダ

 
 
 
 
 
 

 善く高貴で公明正大な人間に成らんと欲する者は、歴史上の芸術家や科学者や宗教者達の、偉大な崇高な仕事(業績)に出会い、啓示を受け、そのことによって、最高の目的と理想を持つようになることが大切である。
 そうして、彼等を信じ、尊敬し、模範とし、理想として、決して理想を低下させず、しかし、彼等を徒に模倣せず、盲従せず、他者の眼ではなく自分自身の眼で、最大の師である自然を深く見て自然を探究すること。そうして自身の個性と性格がある作品を創造するという一生涯の目的を持ち、その実現(達成)に向って、日々、一歩一歩、 忍耐強く勤勉努力することが肝要である。


 
 
 
 
 
 

歴史上の偉大な芸術家達との出会い。



私は二十歳の時の理想と信仰を現在も持ち通している。
真・善・美が理想である。
自然・神佛・人類への愛が信仰の情熱の源である。
自己の修行と完成の道と、他者(存在者)への献身の道である。

                     1992 春

 私は青少年時代に人生如何に生くべきか、信仰と理想を求めて真剣に放浪した。そんな時代に歴史上の偉大な芸術家達の作品に出会ったことが、その後の私の人生を決定的なものにした。
 私は彼等先人達に全身で全力をもって傾倒した。そのことによって私は、人類が創造して来た芸術文化に畏敬を知る、弟子としての人間になったのである。
 相異なる二方向の大芸術家達 —— フイデイアスとミケランジェロ(彫刻) 李白と杜甫(詩) モオツアルトとベエトオヴェン(音楽) セザンヌとゴッホ(絵画)——私はこの両方を求め、広く大きなスケールの、ダイナミックな生き方を望んだのである。
 李白の現世を超越する永遠の美に想いをはせる情熱、杜甫の生活の現実の中で人間的心情を追求する誠実。この一見正反対と思える志向が互いに交錯し合い、悠々普遍の大きな世界を形成しているのである。
 セザンヌを模範として、自然の中に神を探究して独りで修行する。
 ゴッホに倣って、神の僕として(ゴッホはキリスト教会の牧師を父にもつ)、生活の中で他人に奉仕し献身する。
 (しかしそのゴッホは人間関係と職業には失敗を重ね、社会から追放され、孤立した。最後は弟の支援で絵画に励み、芸術の仕事に命を賭けて命を捨てること。その他の事は何も出来なかった人である)
 理想は頭の中で考えられたものではなく、芸術の仕事の中で、生活の中で行為となって実行された時に、初めて偉大なもの価値あるものとなるのである。私のその後の人生は、そのために捧げるものとなったのである。

 
 
 
 
 
 

 私が歴史上の巨匠達の作品に出会った強烈な感動は、懐古的で空想的なものでは決してなく、唯今創り出されたばかりの様な生々しい新鮮な感覚をもって、実在する生命をもって、時空を超えて、現在の私に痛烈に切実にせまってくるものであった。


 それは彼等の生き様、死に様そのものであると思った。孤独と苦悩の中を、妥協せず独りで、最後の日まで、独りで往くところまで往くことが「真理」であることを、彼等の作品と人生が私に示し教えたのである。

                       1992 春

 
 
 
 
 
 

 芸術の二大方向の力――神的・佛的・アポロ的・ロゴス的・アガペー的・真的・知性的・絶対の自己的なものと、人類的・野獣的・ディオニゾス的・パトス的・エロス的・善的・情熱的・生命エネルギー的なもの――の相反し対立する両者を綜合し世界全体を立体的に再創造するという、途方もない執拗な願望の絶え間ない長い歩み。

                   1992 春

 私は前述の芸術の二大方向の巨匠・天才達の間を彷徨した。
 そうして私はこの両方の巨匠・天才達を、自分の芸術と人生の中で、行為として実践しようと欲したのである。
 …片方だけになったり、二者択一的になってはならないと思ってきた。なぜならそれは世界の立体の片面しか見ないことであり、平面的な狭い思想や人生観や世界観しか持てなくなることだからである。
 神的、佛的なものと人類的なものの相克、葛藤、克服の弁証法的進展が、芸術の創造活動の内部で行われているのである。綜合することは、明治以後の日本の芸術家や思想家の多くが出来なかったことである。一方を鋭くとらえても、他方をなおざりにしている。
 大多数の今日までの日本の芸術家や思想家には、自然の実在の生命に直面したときの神的、佛的感覚と、人類的感覚の両方がない。求心力と遠心力、地と天、肉体と精神、そのダイナミックな表現がない。
 自然の実在の生命を凝視し直覚した時の個性的感動、本能、情熱が芸術創造の引導力と根源力である。これが人格性の固定化と、観念化を防ぐものである。
 日本人の多くは、自然と神・佛と人類の関係を、実在感のある生きた思想として自分のものにしていない。

 
 
 
 
 
 

亜流(エピゴーネン)の死んだ芸術と学問ではなく、独創の生きた芸術と学問の復興。

半ば神的で半ば人間的な芸術の創造の生命。

一 人間の外なる自然。
  生命の原初(根源)。太陽と地球。
  遠心的。人類的、ディオニゾス的。

一 人間の内なる自然。
  求心的。精神の世界。神的、佛的、アポロ的。

   

 遠心力と求心力の二つの力。

 
 
 
 
 
 

原始、古代から近代までのユーラシア(ヨーロッパ
とアジア)とアフリカの思想、文化、芸術の交流と
融合の歴史の継承と現代における創造 。
アジアの親和と全人類愛。

 

主に古代エジプト、ギリシャ、ローマ、ヘヴライ、ペルシャ、インド、南アジア、シナ等東アジア、日本に至る古のシルクロードの、現代日本から世界への発進 。アジアの親和と全人類愛。

古代エジプト、ギリシャ、ヘヴライ、ペルシャ、インド、シナ、日本。
一、哲学、宗教思想の研究。その伝播と交流の歴史の研究。
二、芸術の研究。その伝播と交流の研究。
三、文明発祥の地理的条件の研究。

エジプト ナイル河。
ギリシャ 地中海。
ヘヴライ チグリス、ユーフラテス河。
インド  インダス、ガンジス河。
シナ   黄河、揚子江。

 
 
 
 
 
 

 古代ギリシャと古代インドの理想は共に真・善・美である。
 古代ギリシャのコスモス・イデアの世界の造形の基礎力を修得し、古代インドのブラフマン・アートマンの世界の実在と生命力を探究し表現すること。
 更に古代ヘヴライと古代中国の思想を学び綜合することが、東洋の芸術家の目的であり理想である。


梵我一如(古代インド)  天人合一(古代中国)
コスモス イデア(古代ギリシャ) 神人融合 (古代ヘヴライ)

 
 
 
 
 
 

     イデア idea 。

 もと、見られたもの・姿・形の意。
 古代ギリシャのプラトン哲学の中心概念で、感覚的世界の個物の原理・原形として理性的認識の対象となるとともに、超感覚的価値として価値判断の基準となる永遠不変の実在である。
 近世以降、観念、または理念・理想の意となっている。

 
 
 
 
 
 

 ソクラテスにおける無智の智と愛智    philosophia。

…ソクラテスの友人カイレフォンが、あるときデルフォイ神殿に赴き、ソクラテスよりも智慧のある者がいるか伺いをたてた。すると巫女は、誰もいないという答えを返した。
 事の大小を問わず、自分が智者でないと自覚している。
 ソクラテスは戸惑うが、やがて、自分より智慧のある人間を探し出せば、神の真意を問いただせると思いつき、智慧があるとみなされていた政治家、作家、技術者たちの吟味を始める。しかし、ソクラテスが見いだしたのは、彼らは自分が智慧があると思い込んでいるが、実際には智慧を持っていないという事実であった。ここからソクラテスは、真の智者は人間ではなく神・絶対者のみであり、それに比べれば人間の智慧は無価値であること、そして、その事実を悟ったソクラテスこそが、最も智慧ある人間であることを発見する。

 我々が探究しなければならないものは、真実、実在、生命、魂、思慮、正義、理想であり、これに対して、追求してはならないものは、金銭、物、土地、身体、安楽、栄達、名声などである。しかしこれらは、人々が現実に追い求めているものであり、現世の善であると見なしているものである。ソクラテスの愛智活動とは、こうした誤った善の思い込みを払拭し、真実と魂に基づく正しい思慮、思想、理想へと人々の心を変革させる活動だったと考えられる。
 ソクラテスにとって、真実と魂に配慮し、魂ができる限り優れたものになるようにするということは、心が真実へ向くことによって、イデアへの思慮、思想を身につけ、それを通して、正しい行為をする人間になることであるように思われる。
 このように、ソクラテスの愛智活動は、単に人々の無智を暴露するだけの否定的な活動ではない。それは、生活の行動に関する誤った枠組を破壊することにより、人々の視線を永遠の真実を見る方向へと変え、それによって人々に公正無私の倫理的な生活を促す活動だったのである。
 愛智とは、無智を悟ることによって、無智に由来する誤った生から脱出するための営みである。その意味で、愛智は無智の智と表裏一体なのである。
                中澤務
                (当方で自由に書き替えた)

 
 
 
 
 
 

      佛教の三帰依文。




     南無帰依佛。
     帰依佛無上尊。
     人とし人の尊さ。
     自己の悟りのために尽くす。 自己完成の道。
     真の世界。



     南無帰依法。
     帰依法離欲尊。
     己なきの尊さ。
     他者(存在者)のために尽くす。 献身の道。
     善の世界。



     南無帰依僧。
     帰依僧和合尊。
     いやさかえの尊さ。
     世界調和のために尽くす。 共同の道。  
     美の世界。

 

 
 
 
 
 
  

    究極の理想。慈しみ。


        ブツダ。


     

 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。

 足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。

 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいなものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

 何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして、怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

 あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとしいけるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起すべし。

 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。
上に、下に、また横に、障害なく恨みなく敵意なき慈しみを行うべし。

 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎(迷いの生存の意)に宿ることがないであろう。

                スッタニパータ

 
 
 
 
 
 

       最高の道。愛。


        キリスト。


            


 そこで、わたしは最高の道をあなたがたに示そう。

 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

               コリント人への第一の手紙

 

 
 
 
 
 
     

         天人合一

          てんじんごういつ

     
      
                  

 古代中国(旧シナ)において、天と人間とは本来的に合一性をもつとし、あるいは、人は天に合一すべきものとする思想である。
 中国では、超越的存在としての天の概念がきわめて有力で、人の天に対する独自性は発想されることが少なかったから、人の天への合一が、人間の不完全性の克服として考えられた。
 儒家の天命説も、道家の、人は作為を捨て天と一致せよとする説も、広義では天人合一の思想といえる。
 とくに漢代の儒教では、自然現象と人間世界の現象との間に、相互の照応や因果関係があるとされ、そこに、自然現象の根源としての天と、人間との相関が考えられた。
 これは、陰陽説などを吸収しつつ、天人の合一性を自然観・人間観のなかで理論化したものである。
 この漢代の天人合一・天人相関の思想では、君主の行為の適否に応じて自然現象に祥端(しようずい)・災異が生じ、ひいては人間の生活に決定的な影響が及ぶとされたが、これは、天と人間一般とを媒介する中軸の位置に君主を置くことにより、君主に超人間的権威を付与するものであった。

            内山俊彦(当方で一部書き替えた)

 
 
 
 
 
 

   孔子。セザンヌ。



 子曰く、学びて而して時に之を習う。
 亦説ばしからずや。朋遠方より来る有り。
 亦楽しからずや。人知らずして慍みず。
 亦君子ならずや。

 私はこの孔子の言葉、特に人知らずして慍みずについて、絵画の仕事と重ねて思う。
 近代美術の父といわれているセザンヌは、生涯世に知られることがなかった。そのセザンヌの孤独な無名・無償の仕事が、後世の人間に大変な真理を伝えている。
 孔子とセザンヌ、古今東西の二人の聖人の仕事を深く心にとどめよう。

 
 
 
 
 
 

    老子。 モオツァルト。


 

 古より永遠で純粋な京都の風景が、幾千幾萬の神秘な言葉で人間に囁きかけ、到底人間の言葉では表現出来ないものを、沈黙の中に心で感じとる——神・佛の世界へ入って行く。


 モオツァルトの人生の苦悩を超克した、普遍的な純粋な愛の心。

 その境地を老子は次のように言っている。


 欲せんとすることなくして欲し、
 為さんとすることなくして為し、
 感ぜむとすることなくして感じ、
 小を大とし、
 少なきを多しとし、
 悪しきを善しとす。
 是を以て聖人は終に大を為さず、
 故に能く其の大を成す。

 
 
 
 
 
 

  臨済義玄の面門。セザンヌとロダンの面。

 
 

 中国臨済宗の創始者の臨済義玄の臨済録にある言葉。


 赤肉団上一無位の真人(しんにん)有り。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ看よ。

 われわれの肉体上に、一人の何とも限定のつけようのない真人がいて、常に感覚器官を通じて出たり入ったりしている。まだそれをはっきり確かめていない者は、見よ、見よ。

 真実の自己(真人)は自己の内でも外でもなく、自己と世界の接する五感(面門)を出入りしているの意である。

 近代絵画の父といわれているセザンヌと、近代彫刻の父といわれているロダンは、夫れ夫れ、自然の実在の探究の根本原理を面(プラン)と言っている。

 
 
 
 
 
              

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