一
地球。共生。愛。
自然への帰還。
大地に立つ神樹と佛女。
報土の自然芸術寺院の建立。
尊厳な森羅萬象の感動と驚嘆。畏敬の念。
芸術家は自然への強い愛情と信仰をもち、
自然の研究に 生涯の全ての時間と経済を投入し、献身する。
芸術家は眼、耳、手、足など体の各部分ではなく、眼で聴き、耳で見、筆でなく素手を用い、素足で大地に立ち、自然の風景の現場で、日々刻々の制作に没頭するのである。
天地を貫く無限の生命力と創造力。
芸術家に制作意欲を起させるものは、尊厳な永遠な自然に直接に対面した時に自然から受ける感動と驚嘆であり、畏敬と愛の念である。自然天地の無限の生命力と霊力に対応する、芸術家の気稟と資性と独得の創造的情熱である。
人間として大切なことは、大自然・宇宙の創造の絶対の真理・真実と永遠の生命の信仰を持つこと。そして其の探究と創造の志向と実践の生活を持つことである。
宇宙の創造の芸術的真実と宗教的真実は一つである。
師範とすべきは、芸術的・宗教的創造の仕事において、人間の外部の宇宙と、人間の内部(精神・心)の宇宙が一如になり、根本と中心の真実を発見し、人類の精神の革命を起した神人、真人、大天才達である。
最高の芸術家は最高の宗教家であり、最高の宗教家は最高の芸術家である。
宇宙の創造者(造物主)を神と名付けるならば、神は最大の芸術家である。由えに芸術は宗教の元である。
神は創造の力である。大活動力である。大生命力である。大霊力である。大愛・大慈悲力(大は絶対・永遠の意)。
神に知られ通じる芸術家とは、萬物に宿る神の力を見出し表現する人である。
地球の全ての生物の中で、人間だけが永遠の大自然の芸術的表現者である。
宗教も哲学も科学も、人間による大自然の芸術的発見であり、表現であり、芸術的創造である。
大自然・宇宙の永遠不滅の生命の信仰。
地球の大地の大霊の大願に大愛・大慈悲[生命の力と光とエネルギーの恩恵]あり。
生命こそ神・佛なり。
生命の故郷の神・佛から来て故郷の神・佛へ帰る。
此岸から彼岸へ、彼岸から此岸へ、永遠に続く生命の円環の運動[ハタラキ]。
裸形の大樹が大地に立って在る。
一本の大樹が立って在る。
何百年、千年も嵐や日照りに負けずに生き続けてきた裸形の大樹。
自然(じねん)にあるということ、ただそれだけの、何と偉大で尊厳で雄壮で剛健なことか!
大樹は黙って立ってきた。動物。特に人間がよくしゃべる。
あまりしゃべりすぎて沈黙することを忘れがちだ。
自然を深く見ることも、自然の声を黙って聴くこともめったにしない。
人間は大樹の元に、時々やってくる、短い命の動物の一つに過ぎない。
画家は一本の樹木を見つづけ、描くだけでも、一生涯かかる。
それでもまだ描ききれないだろう。
ソロモンの栄華は一輪の野の百合の生命に及ばなかった。
裸身の人間が大地に立って在る。
一人の人間が立って在る。
太古から現代まで変わらない、裸身の人間が立って在る。
自然(じねん)にあるということ、ただそれだけの何と美しく、尊く、不思議なことか!
画家はこのように自然の実在を一生見つづけ、愛しつづける。
固有名詞のついた人間を描くのではない。
固有名詞に執すること(独占欲、所有欲)が人類の争いの原因なのだ。
描く者も、描かれる者も、自分であって、自分ではない。
自我以前の、純粋な生命の根源[神・佛]から生かされている存在だ。
本来名も無い、言葉も無い、おのずからなる存在だ。
動物の中で人間は珍しく二本の足で立つ。歩く。
あまり速く走れず、高く飛べないので、車や飛行機を発明し、
ついにロケットで宇宙の果てまで行こうとする。
母なる大地に立つという人類の原点と初心から離れていく。
大地に立つ裸形の人間と樹の生命が一体となり神殿・寺院の立柱になる。
原始美術の地母神像から、
古代ギリシャのアルカイックのコーレ・クーロスまで。
地球の大地に人類が立つことの原点。
動物と植物の生命。神女・佛女と神樹・菩提樹。
両者が合体して、永遠の生命を祀る神殿・寺院の立柱になる。
神樹と神女の側で傅き獅子吼する野獣と原始人の生命力。
暴力と権力の闘争の思想から、平等と平和の慈愛の思想への転換。
科学技術の物質の環境の破壊力ではなく、芸術の精神の生命の尊厳の炎の創造力。原子力エネルギーから自然力エネルギーへ。
生きている佛像・神像の創造。
物質文明から精神、心の文明へ。
人間中心の思想、宗教、芸術から自然中心の思想、宗教、芸術へ。非暴力、非権力、非戦、非核の恒久の平和と平等のための行動を。
萬物、全生物、全世界への無量の慈愛の実践を。
共生の芸術家
草木山川大地悉皆佛性。森羅萬象悉有神性。一切衆生全人類平等覚智。
自然芸術寺院の建立。