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法(ダルマ)・神の探究。


法(ダルマ)・神の探究。
芸術の修行と宗教の修行は一つ。

 
 
 
 
 
 


佛道即人道。神道即人道。画道即人道。

 
 
 
 
 
 


法(ダルマ)・神の教えは、
人間たるための戒めである。
人間になるための正しい道の教えである。

 
 
 
 
 
 


     ゴータマ・ブツダの教え。


 

宇宙の大霊の大願に反抗する者は、
この世でも、来たるべき世でも、救われることはない。

 

              大乗経典

 

生きものをみずから殺してはならぬ。
他人をして殺さしめてはならぬ。
他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。

 

与えられていないものは、何ものであっても、どこにあっても、知っていてもこれを取ることを避けよ。
他人をして取らせることなく、他人が取り去るものを認めるな。何でも与えられていないものを取ってはならぬ。

 

何びとも他人に向って偽りを言ってはならぬ。
また他人をして偽りを言わせてもならぬ。
また他人が偽りを語るのを容認してはならぬ。
すべて虚偽を語ることを避けよ。

 

ものごとの解った人は婬行を回避せよ。
燃えさかる炭火の坑を回避するように。
婬事たる不浄の行いをやめよ。

 

飲酒を行ってはならぬ。
この不飲酒の教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。
他人が飲むのを容認してもならぬ。

 

           スッタニパータ

 
 
 
 
 
 

      イエス・キリストの教え。


      自分の仕事に純粋な愛を。
 野の百合と空の鳥を教師として沈黙することを学べ。
 人間の言葉を弄するな。真摯に全身全霊で自分の仕事をせよ。

      
  
 

前述の釈迦の言葉を、次のイエスの言葉に置き換えても、全く同じことである。

 若き日のイエスはデッサン=基本が確かな勝れた大工であり建築家であった。


 働き者(誠実に手仕事をする人)には主(イエス自身)は不要である。


人が自分の業(仕事)を愛するに勝るものは、この世に他に何もない。

と聖書に記されている。

 自分の仕事に純粋な愛を。

 先ず神の国とその義を求めよ。野の百合と空の鳥を教師として沈黙することを学べ。人間の言葉を弄するな。 真摯に全身全霊で自己の仕事をせよ。

 この言葉が、芸術家の私への大聖イエス・キリストの至上の教えであり、 純一な福音である。

 
 
 
 
 
 

絶対、純粋、永遠の真実と生命の信仰。
     法・神の教え。


   人生二度なし、 悔いなき生涯を。


無信仰の相対、不純、有限の虚偽と死の敗北の人生か!
信仰の絶対、純粋、永遠の真実と生命の勝利の人生か!

 

あれこれ思い悩み迷いつづける相対的な自己。
死の不安と恐怖が尽きない有限な自己。
不純な考えや行いをする自己。
他人をだます虚偽の自己。
分別し計い判断する打算の自己から

大自然宇宙の絶対、純粋、永遠の真実と生命の信仰をもって、
自己放棄と自己変革の修道の生活を。

有限で相対で虚偽で不義で邪悪な人間が、
永遠で絶対で真実で正義で純善なる法・神(佛法・神法)を
信じ愛する。
法・神は永遠の生命であり慈悲・愛である。
法・神を信じ愛すると言いながら、
相手の人間を騙し友愛を欠く者は、
法・神を信じておらず愛していない者である。
                           法・神の声。 汝ら互いに愛し合え!
自分 —— 法・神 —— 相手の関係であり、中心は法・神である。
                           法・神は全生物、全人類の親である。我々は皆兄弟姉妹である。
一真実・法・神のための、萬人の自由と平等と平和を。
老若男女、地位の上下、有名無名…を超えて。

 
 
 
 
 
 

真実・存在・生命・霊魂(精神)の信仰と探究と験証。


大自然宇宙の絶対の真理(真実)、根源究極の実在、永遠不滅の生命、純粋清浄な霊魂(精神)の信仰。 
信仰は自分の日々の仕事の務めとして、
現実の物事を探究し行為するものであり、
現実の生活の中で実践し験証するものでなければならない。

本当の宗教家、哲学者、芸術家達は皆、
大自然宇宙の絶対の真理(真実)、根源究極の実在、
永遠不滅の生命、純粋清浄な霊魂(精神)を、強く信仰し断じて疑わなかった。

本当の宗教家、哲学者、芸術家達は皆、
金銭、物、地位、栄達、名声等のために、
決して信仰を裏切り、他人を騙す不正、虚偽の言行がなかった。

信仰、信心しているだけでは、それは創造性、生産性が無い、 死んだものである。

信仰は自分の日々の仕事の務めとして、現実の物事を探究し  創造活動するものであり、現実の生活の中で実践し験証する 
ものでなければならない。


信仰は自分の生命以上に大切なもの、生命を捨てて悔い無きものでなければならない。

 
 
 
 
 
 

   法(ダルマ)・神の信仰と探究。

 

法は、存在するもの、存在をして存在たらしめていること 
[ 古代インド ]。                     
神は、在りて在るもの、なるところのものとなること    
[ 古代ヘヴライ ] の義。

 

法を見る者は我を見る、我を見るものは法を見る。

                 ブツダ


神を見る者は我を見る、我を見るものは神を見る。

                 キリスト

 

法・神は観念や抽象ではなく、只今現在、此処に可視的に顕現して在りつつ、不可視的な背後にも在る、深い真実の実在である。
大宇宙に遍く存在する無数の法・神の「全体」を人間の眼で見ることはできない。しかし法・神は眼に見える自然の「個体」の存在に直接に対面し、精神を集中して懸命に凝視し、全身で全力で制作行為する瞬間に、人間の生命・魂・霊の内部で感じ取ることができる、真実の存在者である。
要するに法・神は大自然の生命・魂・霊と人間の生命・魂・霊が一体になっ た、根源の究極の実在である。
由に法・神だけが真実である。他は全て幻影であり虚妄である。

 
 
 
 
 
 

自然と法(ダルマ)に服従。自分に誠実。


 

存在が先、言葉は後。自然が先、自分は後。
自然に服従、自分に誠実。
法が先、自分は後。
法に服従、自分に誠実。

 

我考えるゆえに我ありという、
言葉を過信する抽象的観念から、
我存在するゆえに考えることもできるという、
具象的実在にもとづく、
真実と生命と魂の探究へ。

 

我は考えて有るという、
迷わせる不当な思惟の根本をすべて静止せよ。
内に存するいかなる妄執をも、
よく導くために、
常に心して学べ。

   ブツダ  スッタニパータ

 

芸術家は眼で見る、耳で聞く、手で触れるなど、
五根で感覚する五境の存在や世界を探究する。
芸術家にとっては、頭で抽象的に考えられたものや、
言葉で説明できるものは、全て死んだものである。
法は眼や耳などの五根で精神・心が感覚する、
生きている実在である。

   ヴァスバンドゥ  アビダルマ哲学による

 
 
 
 
 
 

       若き日の出会い。
    霊的開眼、覚醒、回心、誕生。


 


 人は、大芸術家・大宗教家の神人・真人の作品との、痛切で運命的で決定的な出会いがあって、初めて開眼し、真実の世界に生まれかわる。
 新たな霊的な誕生である。
 宗教では回心という。(佛教ではエシン、キリスト教ではカイシンとよぶ)
 開眼なき者は霊性的に盲人である。いたずらに地上の動物性の年令を重ねるに過ぎない。
 未だ信仰がない不安な己が、絶対の信仰を切実に求めて、身をあがき苦しむことである。
 俗世間の目的意識をすっかり捨て、その日その瞬間を必死で生きることである。
 精神的放浪の孤独な若き時代に、絶対に信じ切る人に出会うことである。
 自分よりはるかに純粋で霊的で峻厳で気高く高貴で慈悲深い人に出会うことである。
 自分の頭脳の意識がすっかり一新するような、強烈な感動を受け、無我になり、唯信じ、感謝して、他人に知られず独りで祈る(合掌する)人—拝まれる人—に出会うことである。
 それは永遠不滅の生命であり、光明であり、精神であり、霊であり、慈悲・愛である。真理であり、佛(神といっても同じ)である。
 生涯の師である大天才の真実の人に出会えた人には、虚偽の人生の出世栄達や財産や、束の間の快楽や幸福は必要ではない。
 もはや世間や他人の賞讃や非難に動じぬ人間である。


 眼のあたり先師を見る これ人に逢ふなり

                    道元   正法眼蔵

       

              1955年(20歳頃)
              1975年(40歳頃)改稿

 
 
 
 
 
 

      南禅寺での制作三十年。
  孤独の道。沈潜。五里霧中の努力。苦行。
  宗教的真理の真髄は、人間の罪悪の故に
  佛の悲願は人間を救う。

 

 …私は今後も自分自身を見失うことなく、偉大な永遠な自然の中で、全力をつくして制作に励む決心である。欲を捨て質素に、真実の道を歩み抜こうと願う。世俗に妥協せず、気骨をもって絵画の本道を歩み通す覚悟である。
 南禅寺が建立された目的は、自己の善根のためではなく、衆生を利するための悲願であるといはれている。私にとって、芸道の先師との邂逅の真実の意義は、宗教的真理の神髄は、人間の罪悪の故に佛の悲願は人間を救う、ということにある。先師によって開眼し、佛の実在を知り、真実の自己に目覚め、一切衆生は、本来佛性に輝く尊い個性をもつ生命であることに目覚めたことの、恩に報いるために、衆生と偕に生き、聖なる芸術の寺院を建立するために挺身しなければならない。


 菩提心をおこすと云ふは、己れいまだわたらざる先きに一切衆生をわたさんと発願しいとむなり、そのかたちいやしと云ふも、この心を発せばすでに一切衆生の導師なり。

                 道元


 如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も、ほねをくだきても謝すべし。

                 親鸞

       セザンヌ序論より 1979年(44歳)

 
 
 
 
 
 


真実清浄な霊的な心を持ち通した神童の宗教家と芸術家達を尊崇し生涯に亘って習う。
短命の純粋無雑な天才達に傾倒し、生涯敬愛し続ける。


たとい七歳の童子なりとも我れより勝ならば我れ彼れに問うべし。
たとへ百歳の翁なりとも我れより劣ならば我れ彼れに教うべし。

                       道元

 
 
 
 
 
 

       芸術寺院の建立。


 一以テ之ヲ貫ク。            孔子

 天地と人との、人と人との、命と命との、絶対的に純粋で真実で霊的な存在との、運命的で決定的な、出会いの事実体験をもって、一生涯を貫く。

 大芸術家・大宗教家の真人、神人との出会いがあって開眼し、覚醒し、回心し、新たに誕生したことの、謝念をもって、菩提心を起して、芸術寺院の美術館の建立を発心する。

 十五年の歳月をかけて二千年秋に公開する。
 来館された美術、文学、批評、音楽、歴史、教育、宗教、哲学、科学などの各分野の専門家のみならず、有名、無名、地位の上、下にかかわらず、二度とない魂と魂の出会いを求めて、数々の老若男女の人達と交流する。

 
 
 
 
 
 

 少年の心、純一な画因・画想を持ちつづけて。


 

 少年の心、純一な画因・画想 をもちつづけて。
 人間にとって最も幸せなことは、一生涯を貫き通す仕事をもつことである。

 絵画は職業ではなく天職である。他人に報酬を求めぬ仕事である。

 少年の日再び来たらず、光陰矢の如し、歳月人を待たず、須く一寸の光陰をも軽んじず、勤勉努力の生涯をまっとうすべきである。

 
 
 
 
 
 

神・佛の教えに従う純真清浄な心。


 

諸悪莫作
衆善奉行
自浄其意
是諸仏教


もろもろの悪をなすなかれ。
もろもろの善を奉行すべし。
自らその意を浄めよ。
これ諸仏の教えなり。


衆生本具の一心。 自性清浄心。

             佛典。


心の清い人々は幸なり。その人達は
神を見るであろう。


心を入れかえて、幼子のようにならなければ、
天国に入ることはできない。

             聖書。

 
 
 
 
 
 

  道心ある人、是れ則ち国宝なり。
  一隅を照らす。
          最澄


  一筋の道。
  芸術家は外面を見ず、自己と自然の内面のみを
  見つめ掘り下げ深める。
  多くのものを求めず、一つのものを探究する。
  自己に制約を課し、制限の中で努力する。

 
 
 
 
 
 

狭い門より入れ。
命の滅びにいたる門は広く、その道も広く、そこから入る者が多い。
命の救いに通じる門は狭く、その道も細い。それを見いだす者は少ない。

            イエス。  マタイによる福音書。

 

思うことが謙遜でありたい。
言うことが謙遜でありたい。
行うことが謙遜でありたい。
謙遜とは自己否定の沼に咲いた蓮の花である。

自己否定とは人が永遠不滅の意において純真になる変化(回心)に他ならない。

 
 
 
 
 
 

本当のデッサン=基礎・根本。
日日が基本、一生が基本。

 
 
 
 
 
  

    デッサン=基本(基礎・根本)に始まり
    デッサン=基本(基礎・根本)に終れ。

 

 全ての人は結局、人生においても、仕事においても、各人のデッサン=基本(基礎・根本)以上のことも、以外のことも出来ない。
 本格的なデッサン力=基礎力を身につけるために、若い時からデッサンの勉強に励まねばならない。
 生涯休まず日々(一時間でも)デッサンをすることだけが、一角の人間と、 創作者になる唯一の道である。

 
 
 
 
 
  

    日毎の務め。デッサン。写生。


         
    

 画家の仕事の目的は、自然の真理・実在・生命・精神(霊魂)の探究である。
 探究には基本が大切である。
 基本はデッサンである。
 デッサンと写生は同じ意味である。
 写生とは自然の真実の存在の生命と精神(霊魂)を写し取り表現することである。
 即ち生きた神・生きた佛を写し取ることである。写神・写佛することである。
 神・佛に仕えて修行する僧侶と同様に、画家は自然なる生きている神・佛に仕えて修行し、日毎の務めを果たす。

 
 
 
 
 
  

     釈迦牟尼・佛陀の教え。(一)


                          

   愚直に、自分に出来る限りのことを。
   只デッサン。

        

釈迦にシュリハンダカという名の弟子がいた。
生来何をやっても愚鈍で、物覚えのわるい人だったという。父と兄につれられて出家して釈迦の僧団(サンガ)へ入りたいと願い出たが、釈迦の前で何も言えずただおろおろしているので、父と兄はもうこれまでと思ってシュリハンダカをつれて引き下がろうとした。
その様子を見ていた釈迦は、シュリハンダカに、お待ちなさいと声をかけた。そうしてごく短い教えの言葉と、箒を一つシュリハンダカに手渡した。毎日この教えの言葉を唱えることと、箒で早朝から僧団(サンガ)の中をすみずみまで掃除することを命じた。そのことをシュリハンダカは一生懸命に守り、長い歳月の修行に励み、ついにシュリハンダカは聖者(阿羅漢)になった。

法句経に次の言葉がある。
口にする多きによらず、聞くところ少なしといへ、聞くままに身に行ひつ、能く守り等閑にせぬ、かかる人なむ法(ダルマ)を護持する。

私は聖シュリハンダカのようになれたら誠に幸なことである。

デッサン=基本をやりなさい。この一言が大聖釈迦牟尼・佛陀の私への教えである。
只デッサン!。只管打坐、只題目、只念仏、皆同じである。

 
 
 
 
 
 

      釈迦牟尼・佛陀の教え。(二)


 独り沈黙して自分の眼で、自然の存在自体を深く見て、制作する強い意志を持て。自分の仕事に徹せよ。


 

 絵画の仕事は、若い時から一生涯の長い歳月を、自然に厳しく対峙して、 全力をつくして制作する、強い意志と忍耐と体力が必要である。

 謙虚に初心を忘れず、デッサン=基本の勉強に励むことが大切である。

 基礎の力があってこそ、その上に独創的で普遍的な世界が開けて来るのである。このことは絵画のみならず全ての芸術、全ての科学の仕事についても言えることである。
佛道、佛教の創始者の釈迦牟尼のムーニは沈黙の聖者の意味である。
釈迦は独り沈黙して自己の精神の眼で、自然萬象の真実を深く徹底して見た人である。

 独り沈黙して自分の眼で、自然の存在自体を深く見て、制作する強い意志を持て。自分の仕事に徹せよ。
 これが画家の自分への釈迦牟尼の教訓である。

現代芸術は独り沈黙して自然を深く見ることも、デッサンをすることもしない。そうして勝手気儘なことばかりしゃべりまくっている。

 世の中の遊戯や娯楽や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。

                  スッタニパータ

 

 
 
 
 
 
 

      イエス・キリストの教え。


      自分の仕事に純粋な愛を。
 野の百合と空の鳥を教師として沈黙することを学べ。
 人間の言葉を弄するな。真摯に全身全霊で自分の仕事をせよ。

      
  
 

前述の釈迦の言葉を、次のイエスの言葉に置き換えても、全く同じことである。

 若き日のイエスはデッサン=基本が確かな勝れた大工であり建築家であった。


 働き者(誠実に手仕事をする人)には主(イエス自身)は不要である。


人が自分の業(仕事)を愛するに勝るものは、この世に他に何もない。

と聖書に記されている。

 自分の仕事に純粋な愛を。

 先ず神の国とその義を求めよ。野の百合と空の鳥を教師として沈黙することを学べ。人間の言葉を弄するな。 真摯に全身全霊で自己の仕事をせよ。

 この言葉が、芸術家の私への大聖イエス・キリストの至上の教えであり、 純一な福音である。

 
 
 
 
 
  

      雪舟。セザンヌ。ゴッホ。



    真剣。真面目。真実。一筆入魂。

                      1998年7月

 

 私は今、雪舟とセザンヌとゴッホの絵を複製で見ている。
 彼等の絵は真剣だ。真面目だ。真実以外の何ものもない。一筆入魂。
 デッサン=基本そのものだ。
 雪舟の純潔廉直。セザンヌの純真至誠。ゴッホの純情献身。彼等の絵に表れている聖なる人格を私は尊敬する。
 世間や他人を気にして、展覧会絵や売り絵を描く者達が本物である道理がない。
 雪舟は禅僧であり、職業画家ではない。しかし絵は余技ではない。禅の思想の自己表現をするには、絵画しかないというところまで行った人である。
 セザンヌとゴッホは共にキリスト者であり、心の貧しき者として求道し、
他人に報酬を求めず、無名の絵画の仕事をすること以外は、何もできないところまで行った人達である。

 
 
 
 
 
 
 

デッサンは絵画の基本であると同時に人間の基本。
造形の骨子であると共に、人間の気骨。
皮相な技巧ではなく、純潔な精神態度。
曲がったことは断じて許さぬ真っ直ぐな姿勢。
自分の足が大地に然と立つことを確認する行為。

                   1998年7月
 

 デッサンは形の厳しい見方である。
 デッサンをする人間の精神は硬質である。
 デッサンは絵画の基本であると同時に、人間の基本である。
 造形の骨子であると共に、人間の気骨である。
 皮相な技巧ではなく、純潔な精神態度であり、
曲がったことは断じて許さぬ真っ直ぐな姿勢である。
 デッサンは小手先ではなく全身で描き、
自分の足が大地に然と立つことを確認する行為である。
 私は対象物のうわっつらを見ず、内部に入り込む。
  強い筆圧で紙は食い込まれ、時々破れる。
 虚飾をはぎとり、実在の魂・生命を探究する。

 
 
 
 
 
 

      油絵。色彩の研究。


 外面を見ず自然と自己の内面のみを見つめ深める。
 美は外面にはない。内面にある。


 執著と超越と解脱。

                      1999年5月

 

 ファン・アイク、デューラー、チチアーノ、チントレット、ラファエロ、エル・グレコ、リューベンス、ヴェラスケス、レンブラントらはもとより、近、現代のコロー、ドラクロア、クールベ、セザンヌ、ルノワール、マチス、ルオーらの油絵は透明である。薄塗りの絵においても、厚塗りの絵においても透明である。
 これは透明性の絵具を用いた技法上の問題だけではない。対象物に即して実在感の表現の執拗な追究を行っているうちに、画家自身の感覚が純化してくるのである。対象物に照応する画家の自我内部から出る色彩感覚が透明なのである。

 このことが日本人の油絵に欠けているものである。多くの日本人の油絵は、年と共に若い時の情熱と執着が薄れていく。叙情的になり、淡泊な人柄が作品に表れるようになる。油絵特有の硬質性、粘着性、透明性が薄れ、失われていく。
 油絵具の下塗り。堅牢で不透明なシルバーホワイトの絵具の上に、何層にも有彩色を塗り重ねていく。光と陰。陰は油絵具を用いてこそ透明になる。光も陰も全てが色である。色は生命である。光は暗の中から輝くから光る。逆光の美。ステンドグラスの光。佛光(後光)。
 油絵は、油という濃厚なもの、即ち人間の現世の物事へのあくなき執着と情熱と、純粋、透明なものへの超越と解脱という、相反し矛盾するものの両方を追究する欲望であり願望であり祈願でもある。
 私は毎年毎度の展覧会に間に合わせるような制作はやらない。二年、三年 あるものは二十年、三十年かけて、同じ風景を描きつづけている。厚く盛り上がった絵具の上に、更にデッサンをして形を引き締める。どこまでも描き加えていく。魂と感覚がどこまで深まるか。純化するか。一生涯労働して、絵画の形・色彩・調和を学ぶ。
 制限の中で努力する。外面を見ず、自然と自己の内面のみを見つめ、深める。美は外面にはない。内面にある。神佛は外にはない。心の中にある。
 客観世界を見ることは同時に自分の内面世界を見ることだ。
 主観的でなければ客観的にならないのである。

 
 
 
 
 
  

      形と色彩の綜合の研究。


  東洋絵画と西洋絵画。
  原始、古代美術と近代美術。両方の研究。


  生と死。生きることと生かされていること。

                     2003年2月

 

 西洋絵画を研究してきた私は、油彩画の特質である重厚で硬質な物質感と、鋭敏で透明な色彩感覚を、自分のものとすべく制作した。色彩の本質を見つめ、色彩を実在として捉え、その上で光学理論を採り入れ、対比と調和の研究をすすめ、日本の永遠な自然を多彩で豊かな色彩で表現することは、私の生涯の制作の目的となっている。しかし一方で、より深く自己と、自国の自然と、精神伝統の根本を知るために精進した結果、近代西洋絵画の色と形(デッサン)を同時にすすめるという折衷的な造形方法では、尊厳な自然の存在の真理探究が不充分なことがわかり、それを乗り越えて、より厳しく実在の客観的形態と根本的構造を追究した。その基本となるものが線によるシンプルな黒と白のデッサンである。黒と白は最深・最高の色である。デッサンは下絵ではなく、それ自体で独立した作品と考える。
 対象をデッサンすることは、絵画のみならず、建築、彫刻、工芸など、全ての造形の根本である。
 レオナルドとミケランジェロはそれぞれ「デッセーニョ(デッサン)は全ての芸術の基本であり源流である」ということを述べている。私は「デッサンは絵画の基本であると同時に人間の基本、絵画の骨組であると同時に人間の気骨、単なる技術や観察ではない真摯な精神態度である」と考えている。
 このように、色彩と形態(デッサン)のそれぞれの特質を追究すること、更に相関関係にある両者を論理的に綜合することは、私の制作の一生涯の課題である。
 私にとって、自然は生々しく強烈な存在であり、自然の生命感、物質感、形態と色彩の感覚の強度は、自然の観照や、自然との対決の度合いに応じてどこまでも増大するものである。これが人間の本来の芸術感覚である。自然は元より仕上げたり、完成されるべきものではない。芸術の価値は安易な仕上げや完成ではなく、探究と実現である。
 大自然は剛と柔、峻厳と優美、動と静、生と死、そして生きることと生かされていることなど、相対するものの両方を兼ね具えている。自然とともに在り、綜合と調和に至るような、忍耐強く長い歩みを続けたいと思っている。そうしてこのことにおいてのみ完成に達したいと思っている。

 明治以後今日までの日本の美術は、主に欧米の模倣と追従の域を出なかった。真の自己の発見と絵画の探究が無く、自我の挫折の歴史であった。私は歴史上の巨匠・天才達に傾倒し彼等を崇敬してきたが、しかしいかなる巨匠、天才であれ、彼等に盲従せず、彼等の眼ではなく、自分の眼で自然を見、彼等の方法を模倣して保身せず、対象に直面した自分の感動による直截の方法で、実在の生命と真実を追究した。
 日本美術が平面的で弱いのは、形態の厳しい見方がないからである。量、立体をともなう実在表現がないからである。大地に足がしっかり立つという人類の原点が弱いからである。
 色彩感覚が貧弱なのは、色彩の科学的法則性のある、新鮮かつ本質的な感覚の実現がないからである。自然の無数の色彩(特にこの場合は色相)を眼で客観的に正確に識別し、対比や階調に基づいて画面に写し取るという最初の正しい練習ができていない。調子(明暗)で見てしまい色彩感覚で見ることができない。
 私は東洋画の源流の悠遠な中国宋元の山水画の王維、董源、巨然、荊浩、李成、笵寛、郭煕、許道寧、王蒙等の線と、我が国の雪舟、雪村、友松、永徳、等伯、光琳らの厳然とした線と、西洋の古代ギリシャ以来、ルネッサンスを経て近代に至る、写実精神、人体研究、実在の物質表現、立体表現の伝統を学んで、世界精神の普遍的で独自な現代の芸術を創造するという、目的をもって制作に励んでいる。

 

 大地、山、川、樹木、草花、人体…私が描く対象は、自然存在の最も素朴な原始的なものである。諸々の存在を等価値なものと見て、実在の中に宇宙、生命、神佛を探究する。自然の実在の追究は、魂の根底において宗教的実存と結びついている。
 私の近年の関心は、近代芸術とともに、原始、古代の芸術に向かっている。芸術は原始、古代に遡るほど若々しく初々しく生命に満ちている。自然・実在がなければ太古からの人間の健全な芸術行為は存在しないのであるが、現在はこの自然との直接性という根本と源泉を喪失してしまった、頽廃と堕落と不毛の時代である。
 現代美術が自然と人間存在の現実に真摯に対峙することを忘失し、技術や様式の遊戯に陥っている今日、再び自然と人間との真実な運命的な出会いを根本にもって、自己を超え、宇宙の生命に合体するような芸術創造のための無私で善く高貴な共同が実践されんことを念じて止まない。
                            2003年

 
 
 
 
 
 

 黒と白は最深・最高の色である。黒と白の中には多彩な無数の色が在り、しかもそれらを超越している。

 

 内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、清らかな智慧あり、黒と白(善悪業)を超越した人ーーこのような人はまさにその故に< 賢者>と呼ばれる。

                ブツダ スッタニパータ

 
 
 
 
 
 

 最も感覚的であることは、無感覚であることである。


 一切の感受したものに対する貪りを離れ、一切の感受を超えている人ーー彼は< ヴェーダの達人>である。

               ブツダ スッタニパータ

 
 
 
 
 
 

         ブツダ。

 

この世で一切の罪悪を離れ、地獄の責苦を超えて努め励む者、精励する賢者、——そのような人が<勤め励む者>と呼ばれるのである。


内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛から脱れている人、——そのような人が、まさにその故に<育ちの良い人>と呼ばれるのである。


全世界のうちで内面的にも外面的にも正邪の道理を知っていて、人間と神々の崇敬を受け、執著の綱を超えた人、——かれは<聖者>である。


全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、——かれは<自己を制した人>である。


あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながらに思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、——かれは<目ざめた人>(ブツダ)という。


物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。
しかし物質的領域を熟知し、 非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。


名称と形態において(わがものという思い)の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、 ——かれは実に世の中にあっても老いることがない。


名称と形態とに対する貪りを全く離れた人には、諸々の煩悩は存在しない。だから、かれは死に支配されるおそれがない。


物質的な形態があるが故に、人々が害われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は(病いなどに)悩まされる。それ故に、怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ。


つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は見ることがない。

                     スッタニパータ

 
 
 
 
 
          

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